朝の光が窓から差し込み、部屋を優しく照らし始めた頃、私は目を覚ました。平日の静かな朝。いつもなら急いで準備をする時間だが、今日は珍しく休みをもらっていた。
伸びをしながらベッドから出て、洗面所へと向かう。まだ少し眠たい目をこすりながら鏡の前に立った時、何気なく映った自分の顔を見て、私は一瞬固まった。
「あれ?」
鏡に映る私の髪は、確かに少しだけ長かった。昨日美容院で切ったばかりのはずなのに。気のせいだろうか。もう一度見直すと、いつもの自分の顔が映っていた。
朝食を済ませ、再び洗面所へ戻る。歯を磨きながら、何となく気になって鏡を見た。
今度は違和感がはっきりしていた。鏡の中の私は、間違いなく微笑んでいた。しかし、私自身は歯ブラシを咥えたまま表情を動かしていない。一瞬のことだった。慌てて口から歯ブラシを外すと、鏡の中の私も同じ動きをした。
「疲れているのかな」
自分に言い聞かせるように呟きながら、リビングへ向かった。テレビをつけ、ソファに座る。しかし、どうしても先ほどの違和感が頭から離れない。
再び洗面所へ戻り、鏡の前に立つ。普通に自分が映っている。少し恥ずかしくなりながらも、いくつかのポーズを取ってみる。鏡の中の私も全く同じ動きをする。やはり気のせいだったのだろう。
部屋に戻り、着替えようとクローゼットの扉を開けた。そこには全身鏡があり、私の姿が映っていた。何気なく鏡を見ると、鏡の中の私は既に着替えを終えていた。
冷や汗が背中を伝った。鏡をじっと見つめると、鏡の中の私も同じように私を見つめ返してくる。しかし、そのまま一歩下がる。私は動いていないのに。
「何…?」
震える声が漏れた。鏡の中の私は、わずかに微笑み、そして首を傾げた。まるで「どうしたの?」と聞いているかのように。
恐怖で足がすくみ、動けなくなる。鏡の中の私は、ゆっくりと手を上げ、鏡の内側に触れた。その指先が、まるでガラスを押すように微かに歪んで見えた。
「やめて…」
絞り出すような声を出したその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。突然の音に飛び上がり、振り返る。
「〇〇さん、いますか?宅配便です」
外からの声に我に返り、一瞬目を閉じる。再び鏡を見ると、そこには恐怖で青ざめた自分の顔が映っているだけだった。
宅配便を受け取り、サインをする手が震えていた。配達員が去った後、もう一度クローゼットの鏡を見る勇気を振り絞る。
鏡には普通の私が映っていた。深呼吸をし、少し落ち着いてきた頃、背後から小さな物音がした。振り返ると、洗面所の方から何かが聞こえる。
恐る恐る洗面所のドアを開けると、蛇口から水が少しずつ滴り落ちていた。締め忘れたのだろうか。蛇口をきつく閉め、そして鏡を見た。
その時、鏡の中の私の目から一筋の血が流れ落ちた。
私は悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。鏡の中の私は血を流しながらも笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「あなたはもう、鏡の中よ」
その言葉と共に、世界が反転するような感覚に襲われた。気がつくと、私は鏡の中から外の世界を見ていた。そして鏡の前には、私そっくりの姿をした「何か」が立っていた。
「それじゃあ、いってきます」
その「何か」は私の声で言い、私の歩き方で洗面所を出て行った。
鏡の中、閉じ込められた私からは、もう誰にも声が届かない。