深夜の帰り道、いつも使う踏切を渡っていた。
時刻は午前2時を回っていた。会社の飲み会が長引いて、こんな時間になってしまった。普段なら絶対に使わない道だが、酔いが回って少しでも早く帰りたかった私は、近道の踏切を選んだ。
この踏切は昔から地元では有名だった。「深夜に渡ると、おかしなことが起きる」と。子供の頃から噂には聞いていたが、大人になった今となっては、そんな話を信じる気にもならなかった。
踏切に差し掛かると、遮断機は上がっていた。当然だ。この時間、電車など走っていない。
一歩、また一歩と線路を渡り始めた時だった。
カタン、カタン。
どこからか、列車の車輪が線路を叩く音が聞こえてきた。しかし、電車は見えない。音だけが、じわじわと大きくなっていく。
「気のせいだ」
そう思い込もうとしたが、音は確実に近づいてきていた。遮断機は依然として上がったままで、警報音も鳴っていない。
突然、踏切の向こう側に人影が見えた。黒い制服のようなものを着た男性が立っている。踏切の警備員だろうか。しかし、この時間に?
「すみません」
声をかけようとした瞬間、その人影が私の方をゆっくりと振り向いた。
顔がない。
頭部はあるのに、そこには目も鼻も口もなかった。ただの平らな肌の表面だけがあった。
恐怖で足が動かなくなった。その時、遮断機が急に下りてきた。警報音は相変わらず鳴らない。静寂の中、ただ遮断機だけが下りてくる。
そして再び、列車の音。今度ははっきりと聞こえる。しかし、線路上には何も見えない。
パニックになって走り出そうとした時、足が何かに引っかかった。見ると、線路から黒い手が伸びて、私の足首を掴んでいた。
引っ張っても離れない。列車の音はどんどん大きくなる。顔のない人影はじっと立ったまま、こちらを「見て」いる気配がした。
「助けて!」
叫んだ声は、どこにも届かない。そのとき、突然すべての音が消えた。列車の音も、自分の叫び声も。まるで世界から音が消し去られたかのような静寂。
そして耳元で、かすかな囁き声。
「あの日、ここで亡くなったのは私じゃない」
冷たい息が首筋を撫でる。
「次はあなたの番」
目を閉じて震えていると、突然すべてが元に戻った。足を掴んでいた手も、顔のない人影も消えていた。遮断機は上がり、辺りは静かだった。
やっとのことで踏切を渡りきると、背後から誰かが肩を叩く感触。振り返ると、駅員らしき老人が立っていた。
「こんな時間に、危ないですよ」
その言葉に安堵しかけた時、老人はこう続けた。
「この踏切は40年前に廃止されたんですよ。今は誰も使っていない」
老人の足元を見ると、地面に接していなかった。そして彼の制服は、古い型の駅員服だった。
私は理解した。渡ってきたのは現実の踏切ではなく、40年前の事故の痕跡が残る「別の場所」だということを。
そして今、私はその「別の場所」から、もう戻れないのかもしれない。