昼下がり、私は二階の自室から一階へ降りようとしていた。家の中は静まり返っていて、家族は全員外出中だった。
窓から差し込む陽の光が廊下を明るく照らしていた。普段なら何の気にもならない光景だが、その日は何かが違った。廊下の床に黒い糸のようなものが一筋、微かに見えた。
近づいてみると、それは一本の長い髪の毛だった。床に落ちているのは特に珍しいことではない。しかし、よく見ると、その髪の毛は廊下の中央から壁側へとまっすぐ伸びていた。まるで誰かが意図的に置いたかのように。
何となく気持ち悪さを感じながらも、私はそれを拾おうとした。指で触れた瞬間、髪の毛が動いた気がした。
「気のせいだ」
そう思い、再び手を伸ばすと、今度は確かに、その髪の毛が自分の指から離れるように数センチ動いた。
まるで生きているかのような動き。
冗談だと思い、もう一度触れようとした時だった。
廊下の向こう、階段の方から、かすかな音が聞こえた。誰かが重いものを引きずるような、こすれるような音。しかし、家には誰もいないはずだった。
恐る恐る階段に目をやると、そこにはまた別の黒い髪の毛が一本、階段を上るように伸びていた。先ほどのものとは違う髪。そして階段の上からは、さらに多くの髪の毛が廊下へと続いていた。
「いったい何が…」
言葉が喉で止まった。振り返ると、最初に見つけた髪の毛が、今度は壁を這い上がり始めていた。不自然な動きで、まるで何かに操られているように。
そして壁に到達すると、その髪の毛は壁に何かを書き始めた。髪の毛自体が墨のようになり、壁に文字を残していく。
「帰って」
そう書かれていた。
パニックになって階段へ向かおうとした瞬間、床に落ちている髪の毛がどんどん増えていることに気づいた。一本、また一本と、どこからともなく現れ、床を覆い始める。そのすべてが、生き物のように蠢いていた。
足元を見ると、髪の毛が私の足首に絡み始めていた。振り払おうとしても、どんどん巻きついてくる。
恐怖で声も出ない。その時、二階から再び音が聞こえた。今度ははっきりと、重いものを引きずる音。そして、階段の上に人影が現れた。
長い黒髪に覆われた人影。顔は見えず、ただ髪だけが際立っている。その人影は、ゆっくりと階段を下り始めた。
「誰…誰なの?」
声を絞り出すと、人影が立ち止まった。そして、ゆっくりと髪をかき分けた。
そこには、私とそっくりの顔があった。
しかし、目は虚ろで、肌は青白く、明らかに生きている人間のものではなかった。
「あなたが、私の家に住んでいるのね」
その声は、まるで遠くから聞こえるような、こもった響きだった。
「違う、ここは私の家だ」
震える声で答えると、もう一人の私は不気味な笑みを浮かべた。
「もうすぐ分かるわ」
その言葉と同時に、床から伸びる髪の毛が私の体を覆い始めた。足首から膝、腰、そして胸元まで。逃げられない。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま!」
母の声だ。安堵感が広がる。助かる——
しかし、振り返ると、母はもう一人の私を見て微笑んでいた。
「お帰り、どうだった今日は?」
母は私のことを完全に無視し、もう一人の私と会話を始めた。まるで、そちらが本物の娘であるかのように。
「ママ、私はここよ!」
叫んでも、母には聞こえていないようだった。
もう一人の私が私の方を振り向き、再び不気味な笑みを浮かべた。
「もう、あなたの居場所はないのよ」
そして、廊下の床から伸びる無数の髪の毛が、完全に私の体を覆い尽くした。
最後に見たのは、母と並んで立つもう一人の私。そして、その足元から伸びる一筋の長い黒髪が、私に向かって這ってくる様子だった。
今、私はどこにいるのだろう。誰も私の姿を見ることができず、声を聞くこともできない。ただ時々、家の廊下に一筋の髪の毛を残すことしかできないまま。