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幻の線路

線路

「この近道を使えば、十分ほど早く着くよ」

同僚の村上がそう言ったのは、残業後の深夜十一時過ぎだった。最終電車に間に合うかどうかという瀬戸際で、彼の提案に乗ることにした。会社の裏手から伸びる細い道は、確かに駅までの距離を縮めるはずだった。

「ただ、線路沿いを通るから、気をつけてね」

彼の言葉を軽く受け流し、私は暗い脇道へと足を踏み入れた。街灯の少ない道は、スマホの明かりを頼りに進むしかない。やがて、予告通り古びた線路が見えてきた。使われていない引き込み線のようだった。錆びついたレールは、月明かりを反射してかすかに光っている。

「こんな場所に線路があったんだ」

三年間同じ会社に勤めていたが、この場所の存在は知らなかった。地図アプリで確認しても、この線路は記載されていなかった。

線路沿いの道を歩き始めて五分ほど経った頃、不思議な音が聞こえてきた。カタン、カタン、という規則的な音。まるで列車が走っているような音だが、使われていないはずの線路だ。

「気のせいか…」

そう思った矢先、線路の向こうに人影が見えた。暗がりの中でも、黒いスーツを着た男性のシルエットがはっきりと分かる。会社帰りのサラリーマンだろうか。しかし、男性は線路の上に立ったまま、動かない。

「あの、危ないですよ」

声をかけようとした瞬間、カタン、カタンという音が大きくなった。振り返ると、そこには何もない。線路上を走る列車の姿はなかった。しかし、音はどんどん近づいてくる。

再び男性の方を見ると、彼はまだそこに立っていた。しかし、今度は私の方を向いている。月明かりで照らされた顔には、目も鼻も口もなかった。平らな肌だけがあった。

恐怖で足がすくみ、声も出ない。その時、男性の顔に亀裂が入り、そこから口のようなものが開いた。

「お前も乗るか?」

耳元で囁くような声。しかし、男性はまだ数メートル先に立っている。

「何の…冗談ですか?」

震える声で返すと、男性は首を不自然に傾げた。

「この列車は、行きたいところへ連れて行ってくれる」

その言葉と同時に、カタン、カタンという音がピタリと止まった。そして、私の真横を何かが通り過ぎた気がした。風のような、しかし風よりも実体のある何か。

男性はゆっくりと手を上げ、何もない空間に触れるようなしぐさをした。すると、空気が揺らぎ、そこに古びた客車の輪郭が浮かび上がった。錆びついた鉄、剥げかかった塗装、割れた窓ガラス。そして、車内には人影がびっしりと詰まっていた。

「みんな、行きたいところに行けなかった人たちだ」

男性は言った。車内の人々が一斉にこちらを見た。彼らの顔も、目も鼻も口もなかった。

「私は…帰ります」

後ずさりながら言うと、男性は再び首を傾げた。

「本当にそれでいいのか?この列車なら、どこへでも行ける。会社を辞めて旅に出たかった場所、昔の恋人のいる街、もう二度と戻れない故郷…」

男性の言葉は私の心に直接響いてきた。確かに、毎日の仕事に疲れ、逃げ出したいと思ったことはある。でも…

「いいえ、私は今の生活でいいんです」

強く言い切ると、男性は動きを止めた。そして列車も、徐々に透明になっていった。

「そうか…では、また会おう」

男性の姿も薄れていく。最後に見えたのは、彼の顔に現れた口が歪んだ笑みを作る様子だった。

気がつくと、私は一人で線路の前に立っていた。カタン、カタンという音も消え、辺りは静寂に包まれている。

急いで線路から離れ、駅へと急いだ。最終電車には何とか間に合った。車内で村上にLINEを送る。

「近道、ありがとう。でも線路の男性は怖かった」

すぐに返信があった。

「線路?近道には線路なんてないよ?」

次の日、会社で村上に会うと、彼は不思議そうな顔をした。

「昨日言った近道は公園の脇を通る道だよ。線路なんてないはずだ」

念のため、会社の裏手を調べてみた。確かに公園の脇に近道はあった。しかし、線路はどこにもなかった。

その夜も残業になり、最終電車が危うくなった。近道を使おうとした時、遠くからカタン、カタンという音が聞こえた気がした。私は足を止め、大きく遠回りして駅へ向かった。

もう二度と、あの列車には乗らない。行きたい場所があっても、自分の足で歩いていこう。