夜も更けて、病室の消灯時間を過ぎていた。窓の外は真っ暗で、時折雨粒が窓ガラスを打つ音だけが静寂を破っていた。
私は二週間前から、原因不明の高熱で入院していた。四人部屋の一番奥のベッド。窓際の位置だ。他の患者は皆、年配の方ばかりで、すでに眠りについている。
点滴の滴る音と、廊下の向こうから聞こえてくるナースステーションの物音だけが、この静かな夜に存在を主張していた。
ふと目が覚めると、時計は午前2時を指していた。喉が渇いていたので、ベッドサイドのテーブルに置いてあった水を飲もうとした時だった。
部屋の入口のドアが、ゆっくりと開いた。
「看護師さんかな」と思ったが、入ってきたのは中年の女性だった。見舞客にしては明らかに遅い時間だ。しかし彼女は病室に入ってくると、私の隣のベッドの患者、佐藤さんの方へとゆっくりと歩いていった。
佐藤さんは70代の男性で、脳梗塞の後遺症で入院していた。昼間は家族が交代で付き添っていたが、夜は一人で過ごしていた。
「こんな遅くに見舞いですか?」と声をかけようとした私だったが、何か違和感を覚えて黙ってしまった。彼女の足音がまったく聞こえないのだ。
女性は佐藤さんのベッドの横に立ち、じっと彼の顔を見つめている。そして、ゆっくりと手を伸ばし、佐藤さんの額に触れた。
私は何も言えず、ただ見ているだけだった。
女性の姿がだんだんと透けて見えるような気がした。病室の薄暗い光の中で、彼女の輪郭がぼやけていく。
そして彼女は振り返り、私の方をじっと見た。その目には何の感情も宿っていなかった。
私は恐怖で身動きができなくなった。女性はゆっくりと首を傾げ、微笑んだ。それから再び入口へと向かい、ドアを開けることなく、そのまま壁を通り抜けるように消えていった。
翌朝、私が目を覚ますと、佐藤さんのベッドの周りにナースや医師が集まっていた。彼は夜中に亡くなっていたのだ。
「昨夜、誰か佐藤さんのお見舞いに来ていませんでしたか?」と私は看護師に聞いた。
「いいえ、面会時間は夜8時までですよ。それ以降は誰も入っていません」
その後、佐藤さんの息子さんが荷物を取りに来た時、病室に飾ってあった家族写真を見て、私は息をのんだ。
そこには昨夜見た女性が写っていた。佐藤さんの妻だという。
「母は3年前に亡くなりました」と息子さんは言った。「父はそれ以来、母を失った悲しみから立ち直れずにいたんです」
それから数日後、私の熱は突然下がり、退院できることになった。最後の夜、ベッドで横になっていると、またあの音のない足音を感じた。
ゆっくりと目を開けると、窓際に女性の姿があった。佐藤さんの妻だ。彼女は微笑み、ゆっくりと私に向かって歩いてきた。
恐怖で声も出ない私に、彼女は耳元でささやいた。
「あなたは助かったわ。でも、いつかまた会いましょう」
翌朝、私は退院した。しかし今でも夜中に目が覚めると、誰かが部屋の隅で静かに佇んでいるような気がしてならない。そして時々、窓ガラスに映る自分の姿の後ろに、あの女性が立っているような気がするのだ。