夜勤は私の専門だった。小さな町の市立病院では、夜勤専門の看護師は貴重な存在で、他のスタッフからは感謝されていた。日中は子育てに専念し、夜は病院で働く。この生活リズムにすっかり慣れていた。
あれは去年の秋、木々が色づき始めた頃のことだ。いつものように夜勤の準備をしていると、新人看護師の美香が緊張した面持ちで話しかけてきた。
「佐藤さん、今夜から夜勤、一緒ですね。よろしくお願いします」
彼女は病院に来て3ヶ月ほど。まだ夜勤に不安があるようだった。私は優しく微笑んで答えた。
「ええ、何かあったら言ってね。夜は静かだから、大丈夫よ」
その夜は穏やかに始まった。患者さんたちはほとんど眠りについており、定期的な巡回と点滴の確認が主な仕事だった。午前1時を回った頃、ナースステーションのコールが鳴った。
「307号室からのコールです」とシステムの機械的な声が告げる。
私は少し首をかしげた。305号室まではあるが、307号室?そんな部屋番号は見たことがない。
「美香さん、307号室ってあったかしら?」
美香も困惑した表情を浮かべた。「いいえ、3階は305号室で終わりのはずです」
システムの誤作動だろうと思い、念のため3階の廊下を確認しに行った。305号室の先には倉庫があるだけで、307号室らしき部屋は見当たらなかった。
その夜はそれで終わった。翌朝、主任看護師の山田さんに報告すると、彼女は眉をひそめた。
「307号室?そんな部屋はないわよ。システムの点検を依頼しておくわ」
次の夜勤は3日後だった。その間、不思議なコールのことはすっかり忘れていた。その夜も静かに始まったが、午前2時15分、再びコールが鳴った。
「307号室からのコールです」
今度は美香が休みで、代わりに中堅看護師の鈴木さんと組んでいた。
「鈴木さん、307号室からコールが来てるんだけど、そんな部屋あったっけ?」
「ないはずよ。システムのバグじゃない?」
念のため、また3階の確認に行った。305号室の先の倉庫の扉が少し開いていることに気がついた。おかしいな、と思いながら扉を開けると…
そこには病室らしき空間が広がっていた。薄暗い照明の下、一つのベッドがあり、誰かが横たわっていた。
私は凍りついた。心臓が早鐘を打つ中、震える手でライトを取り出し、ベッドに向けて照らした。しかし、そこには誰もいなかった。ただのシーツが山のように盛り上がっていただけだった。
急いで扉を閉め、ナースステーションに戻った。鈴木さんに話すべきか迷ったが、疲れからの幻覚かもしれないと思い、黙っていた。
翌朝、再び山田主任に報告すると、彼女は真剣な表情になった。
「実は…10年前、この病院が改装される前、307号室というのはあったの。でも今はないはずよ」
その言葉に背筋が凍りついた。
次の夜勤の前に、図書館で病院の歴史を調べてみた。10年前の新聞記事に目が留まった。「市立病院3階で患者が自殺、病院側の責任を問う声も」。307号室で起きた事件だった。
その夜、私は恐怖と好奇心が入り混じった感情で夜勤に臨んだ。午前0時を過ぎても何事もなく、少し安堵していた矢先、コールが鳴った。
「307号室からのコールです」
今夜は一人での夜勤だった。誰にも相談できない。深呼吸して、3階へ向かった。
倉庫の扉は閉まっていたが、近づくと「カチッ」と音がして、自然に開いた。中に足を踏み入れると、前回見た病室らしき空間が広がっていた。ベッドには今回も人影のようなものがあった。
震える足で近づき、声をかけた。「どうされましたか?」
返事はない。
もう一度ライトを向けると、そこには若い女性が横たわっていた。目を閉じ、安らかな表情をしている。しかし、首元には青黒いあざが…
私は思わず後ずさりした。その瞬間、女性が目を開いた。白く濁った目で私を見つめ、口を開く。
「助けて…私を見つけて…」
恐怖で声も出ない私の前で、彼女はゆっくりと体を起こした。シーツが滑り落ち、彼女の病衣の胸元には「307」と書かれた患者タグが見えた。
「誰も…信じてくれない…あの医師が…」
突然、背後でドアが閉まる音がした。振り返ると、そこには山田主任が立っていた。普段の優しい表情はなく、冷たい目で私を見つめていた。
「佐藤さん、夜勤の幻覚は良くないわよ。少し休憩した方がいいわね」
その手には注射器が握られていた。私は本能的に危険を感じ、後ずさりした。
「主任…これは…」
「10年前、私はここで研修医だったの。彼女は…私のミスで…」
山田主任の声は震えていた。私の背後では、ベッドの女性が静かに首を振っている。
「真実を…話して…」
その日以来、私は夜勤を外れた。病院は「体調不良」という理由で受け入れてくれたが、山田主任の目には常に警戒心が宿っている。
そして昨日、病院から一通の封筒が届いた。開けると中には一枚の古い写真。10年前の病院スタッフの集合写真だった。よく見ると、若かりし日の山田主任の隣に、あの307号室で見た女性が微笑んでいる。
裏には手書きで一言。
「今夜、307号室で待っています」
今夜も、あの部屋からコールが鳴るのだろうか。