私は三ヶ月ぶりに髪を切りに行くことにした。いつも行く美容院は最寄り駅から少し離れた場所にある「Miroir(ミロワール)」という小さなお店だ。フランス語で「鏡」を意味する名前のとおり、店内には大きな鏡がたくさん設置されていて、どこにいても自分の姿が見える。
その日は平日の午後、私は最後の予約客だった。外はすでに薄暗くなり始め、店内の温かな照明が心地よく感じられた。
「いつもどおりでよろしいですか?」
担当の佐藤さんが笑顔で聞いてきた。私は頷き、いつものように鏡の前の椅子に座った。シャンプー台に移動する前に、少し鏡越しに自分の髪を見つめた。
そのとき、一瞬だけ違和感を覚えた。鏡に映る私の後ろ、カーテンの影がちょっとだけ動いたように見えた。私は振り返ったが、そこには何もなかった。
「どうかしましたか?」と佐藤さん。
「いえ、なんでもないです」
シャンプーを終え、カットに入ると、私は再び鏡の前に座った。佐藤さんがハサミを手に私の髪を整えていく様子を鏡越しに見ていた。その時、また違和感があった。
鏡に映る私の背後、店の奥のほうに誰かが立っているように見えた。黒い服を着た細身の人影だった。私はすぐに振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「あの、奥に誰かいます?」
佐藤さんは不思議そうな顔で「いいえ、今日は私と店長だけですよ」と答えた。店長は受付にいるはずだ。
カットが進むにつれ、私の不安は増していった。鏡の中で、その人影はだんだんはっきりと見えるようになってきたのだ。黒い服を着た細身の女性。顔は暗くてよく見えない。しかし確かにそこに立っていた。振り返るといつも誰もいないのに、鏡に目を戻すとその姿があった。
「佐藤さん、本当に後ろに誰もいないんですよね?」
佐藤さんは少し心配そうに「はい、誰もいませんよ」と言った。「大丈夫ですか?疲れていますか?」
「ああ、最近忙しくて…」と言い訳したが、私の目は鏡に釘付けだった。その女性はじっと私を見つめていた。そして、ゆっくりと私に近づいてきていた。
カットが終わり、ブローに入ったとき、恐ろしいことが起きた。鏡の中の女性が、私の肩に手を置いた。冷たい感触が肩に伝わり、私は震えた。佐藤さんはドライヤーの音に気を取られていて、気づいていない様子だった。
私は動揺を隠せず、「ちょっとトイレに行ってきます」と言って席を立った。トイレに駆け込み、深呼吸をした。「気のせいだ、疲れているだけだ」と自分に言い聞かせた。
トイレの小さな鏡を見ると、そこには私だけの姿があった。少し安心して、手を洗い、顔に水をかけた。
店に戻ると、佐藤さんが「お待ちしてました」と言った。再び席に着き、ブローが再開された。そして、鏡を見た私は凍りついた。
あの女性が、今や私のすぐ後ろに立っていた。そして、彼女の顔がはっきりと見えた。それは…私自身の顔だった。しかし、目が生気なく、肌は青白く、唇が異様に赤かった。
私は恐怖で声も出せなかった。その時、鏡の中の「私」が口を開いた。「代わってあげる」と、声にならない声が聞こえた。
「佐藤さん!鏡に!」と私は叫んだ。
佐藤さんは驚いて「どうしましたか?」と聞いた。彼女には見えていないようだった。
「鏡に…私の後ろに…」言葉につまる私を見て、佐藤さんは心配そうに「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」と言った。
ブローが終わり、会計を済ませる間も、私は鏡を見ないようにした。しかし、出口に向かう途中、大きな壁面鏡に映った自分の姿が目に入った。そこには確かに私がいた。だが、その表情は私のものではなかった。鏡の中の私は、微かに笑っていた。
それから数日後、私はなぜか再びMiroirに行きたくなった。前回のことは気のせいだったのだろう、と自分に言い聞かせながら。
店に入ると、佐藤さんが満面の笑みで迎えてくれた。「いらっしゃいませ!今日はどうされますか?」
私は鏡の前に座り、自分の姿を見つめた。鏡の中の私は、満足げに微笑んだ。そして、ゆっくりと目を瞬かせた—私が瞬きをする前に。
佐藤さんは気づいていなかった。誰も気づいていない。鏡の中の私は、もう私ではないのだということに。
今、私は鏡の向こう側から、新しい「私」が毎日を生きているのを見ている。彼女は私の家で、私の服を着て、私の友人と話し、私の人生を生きている。そして時々、美容院の鏡越しに私に微笑みかける。
私がいつか、鏡の向こう側から現実世界に戻れる日は来るのだろうか。あなたも鏡を見るとき、そこに映るのが本当にあなた自身なのか、確かめてみてほしい。もしかしたら、私のように、既に交代してしまっているかもしれないから。