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乗客のいない助手席

タクシー

雨が激しく降る金曜の夜、私は残業を終えて疲れ切っていた。オフィスビルの玄関先で雨脚を眺めながら、タクシーアプリを開いた。普段なら電車で帰るところだが、この天気では濡れずに帰宅するのは不可能だった。幸い、アプリにはすぐ近くに車があると表示されている。迎車ボタンを押すと、3分後に到着予定と出た。

「黒のクラウン、ナンバー5723」とアプリは教えてくれる。雨の中、車のライトが近づいてくるのを眺めていると、ちょうどアプリの情報と一致する車が滑るように止まった。

私はドアを開け、素早く後部座席に滑り込んだ。

「お疲れ様です。西新宿の〇〇マンションまでお願いします」

運転手は無言で頷いただけだった。中年の男性で、黒い帽子を目深に被っている。普段ならもう少し会話があるものだが、この時間帯だし、黙々と仕事をこなしたいのかもしれない。そう思い、私もスマホを取り出して黙っていることにした。

車が動き出して数分経った頃、何か違和感を覚えた。運転手がナビを使っていないのだ。確かに西新宿は東京の中でも有名な場所だから、経験豊富なドライバーなら道を知っているだろう。だが、マンション名まで言ったのに確認もなく、そのまま走り出したことに少し不安を感じた。

「すみません、西新宿の〇〇マンションに向かっていますよね?」

運転手は再び無言で頷いただけだった。彼は一度も振り返らず、バックミラー越しに私を見ることもなかった。雨の音だけが車内に満ちていた。

窓の外を見ると、見慣れた道を通っていない気がした。しかし東京の夜の雨では、すべての景色が似たように見える。携帯のマップを開こうとしたが、突然電池が切れた。充電していたはずなのに。奇妙だった。

「ちょっと遠回りになりますが、この道なら渋滞を避けられますので」

突然、運転手が口を開いた。声は奇妙に低く、どこか機械的だった。私は安心したふりをして「ありがとうございます」と返したが、胸の奥で不安が膨らみ始めていた。

雨に濡れた窓から外を見ると、もはやどこを走っているのかわからなくなっていた。高層ビルが少なくなり、知らない住宅街を通り過ぎている。西新宿に向かっているとは思えなかった。

「すみません、この道で合っていますか?」

今度は運転手から返事がなかった。まるで私の存在を忘れたかのように、黙々と運転を続けている。恐怖が背筋を這い上がってきた。

そのとき、信号で止まった瞬間、私は偶然助手席の足元に目をやった。そこには小さな女性用のハンドバッグが置かれていた。赤い革製で、雨に濡れたような跡がある。

普通、助手席に客を乗せていなければ、そんなものがあるはずはない。

「あの、助手席に忘れ物がありますよ」

運転手は全く反応せず、信号が変わるとすぐに発進した。私の声が聞こえていないかのようだった。

その瞬間、助手席から不自然な音が聞こえた。何かが動いたような、布がこすれるような音。私は凍りついたように動けなくなった。

再び助手席の足元を見ると、先ほどのバッグが少し位置を変えていた。そして、その横に薄く水たまりができている。雨水だろうか。いや、それにしては色が濃い。

私の心臓が早鐘を打ち始めた。

「すみません、ここで降ろしてください」

運転手は相変わらず無言だった。車はさらに知らない道へと進んでいく。周囲には建物が少なくなり、街灯もまばらになっていた。

恐怖で声が震えながらも、もう一度言った。「今すぐ停めてください!」

するとゆっくりと、運転手が初めて私の方を向いた。バックミラー越しに見えた彼の顔には、目がなかった。ただ暗い窪みがあるだけ。

「次の方をお迎えに行かねばなりませんので」

その声は今度ははっきりと不自然で、人間の声ではなかった。

私はパニックになってドアノブを掴んだ。ロックされていた。必死でロック解除のボタンを探すと、助手席から明らかな動きがあった。誰もいないはずの助手席のシートが、何かの重みで沈んだのだ。

そして、鏡に映った運転手の「顔」が完全に私の方を向いた。

「お客様、もうすぐ目的地です」

震える手でスマホを再度確認すると、奇妙なことに画面が点いていた。タクシーアプリには「目的地に到着しました」と表示されている。しかし外は真っ暗な森の中のようだった。

そのとき、助手席から水滴が落ちる音がした。見ると、足元の水たまりが大きくなっていて、明らかに赤黒い色をしていた。そして助手席のシートには、誰かが座っているような凹みがはっきりと見えた。

「前のお客様も、ここで降りられました」

運転手の声が車内に響く中、助手席から何かがゆっくりと立ち上がった。しかし、そこには何も見えない。ただ、座席が持ち上がり、見えない何かが動いているだけだった。

「あなたも、ここで降りていただきます」

運転手が言うと同時に、ドアロックが解除される音がした。そして私の隣のドアがゆっくりと開いた。雨はすでに止んでいた。外は森の中の小さな空き地のようだった。

助手席の見えない何かが車を降り、私の方へと回り込んでくる気配がした。雨に濡れた足跡が、空中から地面につけられていくのが見えた。

運転手は再び前を向き、まるで私がもうそこにいないかのように言った。

「次のお客様をお迎えに行かねばなりませんので」

私は叫び声を上げようとしたが、声が出なかった。

次の瞬間、見えない力が私の腕を掴み、車の外へと引きずり出した。地面に倒れた私の目の前で、タクシーのドアが閉まり、車はライトを消して闇の中へ消えていった。

残されたのは、赤黒い足跡と、雨に濡れた私の体だけ。そして遠くから聞こえる、次のタクシーが近づいてくる音。

今夜、誰かがタクシーアプリで車を呼ぶだろう。そして画面には「黒のクラウン、ナンバー5723」と表示されるのだ。