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鏡の向こうの乗客

駅のホーム

毎晩の残業で疲れきった私は、いつものように駅のホームで最終電車を待っていた。一日の終わりに、人混みが嘘のように静まり返った千代田線の駅は、蛍光灯のかすかな音だけが響く別世界のようだった。

その彼女を初めて見たのは二週間ほど前の木曜日だった。

私が立っていた場所から三メートルほど離れたところに、一人の女性が佇んでいた。派手な格好ではなかったが、首に巻かれた鮮やかな赤いスカーフだけが、この薄暗い駅の風景に不釣り合いな彩りを添えていた。

彼女は時々スマホを見るものの、顔を上げるとすぐに線路の向こう側を見つめ続けた。不思議に思った私は、彼女の視線の先を確認してみたが、そこには改札に続く階段と壁面の広告があるだけだった。

その夜は特に何も起こらなかった。最終電車が到着し、私たちは別々の車両に乗り込んだ。

次に彼女を見かけたのは、その三日後だった。

同じ赤いスカーフ。同じ位置。同じように線路の向こう側を見つめる姿勢。

今度は少し注意して観察してみた。彼女は三十代半ばくらいだろうか。普通のOLといった雰囲気だが、どこか遠くを見つめる目は焦点が合っていないようにも見えた。

その晩も、彼女は最終電車に乗り込んでいった。私は何となく同じ車両に乗り、彼女を観察していた。彼女はスマホを見ては微笑み、時折小さく笑いながら画面を操作していた。ごく普通の、疲れた会社員の姿だった。

ところが翌週の月曜日、事態は変わった。

いつものように最終電車を待っていると、またあの赤いスカーフの女性が現れた。だが今回は少し様子が違った。彼女は線路を見つめるのではなく、まっすぐ前方の闇に向かって微笑んでいた。

そして電車が到着した瞬間、彼女は小さく笑い、誰もいない車両へと乗り込んでいった。

「おかしいな」と思った。その車両には確かに誰も乗っていなかった。深夜とはいえ、通常は数人は乗客がいるものだ。なのに彼女が選んだ場所だけ、不自然なほど空いていた。

電車が発車してから、私はなぜか不安になった。翌日からまた彼女に会うことになるのだろうか。そう思うと、胸に漠然とした恐怖が湧き上がってきた。

次の日も私は残業で、いつものように最終電車を待っていた。そのとき、背筋に冷たいものが走った。

私の隣に、誰かがいる気配がした。

振り向くと、そこには誰もいなかった。だが、確かに誰かの存在を感じる。それは私の想像ではなく、空気の密度が変わったような、微かな温度の変化のような、確かな「何か」だった。

電車を待つ間じゅう、その気配は消えなかった。

翌日も同じだった。そして翌々日も。

いつも決まって、私が駅のホームに立つと、隣に「誰か」の気配がする。見えないのに、そこに立っている感覚。時々、かすかな笑い声さえ聞こえるような気がした。

そして一週間後の木曜日、私は彼女を再び見かけた。

だが今回は様子がおかしい。彼女は線路の向こう側を見つめながら、誰かと会話しているように口を動かしていた。声は聞こえない。ただ口だけが動いている。

そして電車が到着すると、彼女は振り返って私を見た。

初めて彼女と目が合った瞬間、私は凍りついた。彼女の顔には笑みが浮かんでいたが、その目は恐ろしいほど虚ろだった。まるで人形のような、生気のない瞳。

彼女は再び空の車両に乗り込んでいった。だが今回、私は確かに見た。彼女の隣にも、「誰か」がいた。見えないのに、そこにいる何か。

翌日から、私の隣に立つ「気配」は、より強くなった。時々、冷たい指が私の手に触れるような感覚さえあった。

不安と恐怖で眠れない日々が続き、医者に相談したが、「ストレスからくる一時的な症状」と診断された。

そして再び木曜日がやってきた。今日こそ彼女に話しかけよう、と決意していた私は、いつもより早く駅に着いた。

だが彼女の姿はなかった。

代わりに駅員が二人、ホームの端で何かを話していた。近づいてみると、「先週の事故」について話していることが分かった。

「あの女性、赤いスカーフをしていたよな」 「ああ、防犯カメラには一人で歩いてるように映ってたらしいが、目撃者の話じゃ誰かと話しながら歩いてたって」 「不思議だよな。電車もまだ来てないのに、どうして線路に…」

その言葉を聞いた瞬間、私の体は冷たい汗でびっしょりになった。

帰宅後、インターネットで検索してみると、確かに先週の木曜日、この駅で飛び込み自殺があったと報じられていた。被害者の詳細は明かされていなかったが、「赤いスカーフをした女性」という目撃情報はあった。

その日以来、私の隣に立つ気配は二つになった。

そして昨日、私がホームで電車を待っていると、隣にいる見えない存在の一つが、私の耳元でささやいた。

「一緒に来ない?」

かすかに聞こえる声は、間違いなく赤いスカーフの女性のものだった。

今日も私は最終電車を待っている。向かいのホームの広告が鏡のように反射して、私の姿が映っている。

だが、その鏡に映る私の姿は一人ではない。私の両隣に、赤いスカーフの女性と、もう一人の姿がぼんやりと映っている。

彼女は笑っている。そしてもう一人も。

電車が来る音が聞こえ始めた。