最初に気づいたのは三週間前のことだ。
毎朝、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ駅で降りて、会社まで歩く。そんな日々を五年続けてきた僕の生活に、ある日、小さな違和感が忍び込んだ。
駅前の駐輪場に停めてある僕の青い自転車が、いつもの位置から数センチずれていたのだ。
「誰かがぶつかったのかな」
そう思って特に気にせず、その日は自転車に乗って帰宅した。しかし翌日も、そして翌々日も、毎朝駐輪場に行くと自転車が少しずつ違う位置に移動していることに気づき始めた。
最初は東に十センチ、次は西に五センチ、その次は南に七センチ。微妙な距離だが、毎日同じ場所に自転車を停める僕には、その違いが手に取るように分かった。
「きっと誰かのいたずらだろう」
そう自分に言い聞かせながらも、なぜか背筋に冷たいものを感じずにはいられなかった。なぜ僕の自転車だけが狙われるのだろう?周りには同じように毎日停められている自転車が何台もあるというのに。
一週間が経った頃、僕は自転車に小さなシールを貼ることにした。サドルの裏側、普通なら気づかない場所に。そして翌朝、駐輪場に行くと案の定、自転車は五センチほど北にずれていた。しかし、シールはしっかりと元の位置に残っていた。
「やっぱり誰かが動かしている」
その夜、僕は少し遅くまで会社に残り、帰りは最終電車に近い時間だった。駅に着いて駐輪場に向かうと、そこには他の自転車がほとんどなく、僕の青い自転車だけが月明かりを受けて浮かび上がるように見えた。
自転車に近づくと、なぜか空気が重く感じられた。季節は初夏だというのに、周囲の温度が一気に下がったような錯覚を覚えた。自転車のハンドルに手をかけた瞬間、僕は凍りついた。
サドルに、何かが座っていた。
目には見えないが、確かに「重み」があった。サドルが微かに沈んでいる。誰もいないはずなのに。
震える手で自転車のカギを開け、何とか家まで漕いで帰った。その夜は眠れなかった。
翌朝、勇気を出して駐輪場に行くと、自転車は普通に停まっており、特に異変は感じられなかった。「昨夜は疲れていたんだ」と自分に言い聞かせ、その日は電車で会社に行くことにした。
それから数日、僕は自転車に乗らなかった。しかし毎朝、駐輪場を通りかかると自転車の位置が少しずつ変わっていることに気づいた。もう誰かのいたずらだとは思えなかった。
そして一週間後、決心して自転車を使うことにした。夕方、仕事を終えて駅に戻り、おそるおそる駐輪場に向かう。青い自転車は相変わらず微妙に位置をずらされていた。
近づいて確認すると、タイヤの空気が少し減っていた。「乗っている何か」の重みで、少しずつ空気が抜けていたのだろうか。怖かったが、もう逃げるわけにはいかない。
カギを開け、おそるおそる自転車に乗る。特に異変はなかった。安堵しながら漕ぎ始めたその時、後ろから聞こえてきた。
「ずっと待っていたよ」
振り返る勇気はなかった。ただ必死に漕いだ。心臓が飛び出しそうなほど速く鼓動し、呼吸が苦しくなった。しかし声は消えなかった。
「あなたの自転車、乗り心地がいいね」
声は後ろから、確実に自分のすぐ背後から聞こえてくる。しかしサドルには僕しか座っていないはずだ。
家に着くと、玄関先に自転車を放り投げるように置き、部屋に駆け込んだ。窓から外を見ると、青い自転車はそこに静かに停まっていた。しかし、次の瞬間、誰も触れていないのに前輪がゆっくりと動き、自転車全体が少しだけ位置をずらした。
翌朝、僕は警察に自転車の盗難届を出した。実際に盗まれたわけではなかったが、もうあの自転車には乗れなかった。
それから三ヶ月が経った今、僕は引っ越しを考えている。なぜなら毎晩、窓の外から聞こえてくるからだ。カラカラと自転車のチェーンが回る音が。そして時々、窓ガラスを通して聞こえてくる囁き声が。
「新しい自転車も、乗り心地がよさそうだね」
最近購入した赤い自転車は、毎朝、駐車場の中で微妙に位置をずらしている。