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バス停にいる女の子

バス停

雨の音が、夜のアスファルトを叩く。六月の梅雨時期、帰宅途中の会社員・田中清は、いつもの帰り道でバスを待っていた。夜勤明けの疲れた体に、冷たい雨粒が容赦なく降り注ぐ。傘を持っていたものの、強い風に煽られ、半身は既に濡れていた。

時刻は午前0時15分。この時間のバスは、清が住むアパートの近くを通る最終便だった。普段なら、このバス停で待っているのは清一人だけだった。しかし、今夜は違った。

バス停のベンチに、一人の少女が立っていた。

長い黒髪が雨に濡れて、白いワンピースにぴったりと張り付いている。傘もささず、ただ黙って立ち尽くしていた。年齢は中学生くらいだろうか。こんな時間に、一人で何をしているのだろう。

「大丈夫?」

清は声をかけた。少女は反応しない。

「傘、使う?」

それでも少女は黙ったままだった。不気味に思いながらも、清は少し距離を置いて待つことにした。

バスのヘッドライトが見え始めた時、ふと気づくと少女の姿はなくなっていた。急に立ち去ったのだろうか。不思議に思いながらも、清はバスに乗り込んだ。

翌日も雨だった。同じ時間、同じバス停。清は再び少女を見た。今日も傘をささず、ずぶ濡れになって立っている。昨日と同じ白いワンピース。昨日と同じ位置に立ち、昨日と同じように無表情だった。

「あの、昨日も見かけたけど…」

少女は振り向きもしなかった。バスが来るとき、やはり少女は消えていた。

これが一週間続いた。毎日雨が降り、毎日少女はバス停に立ち、毎回バスが来る直前に消えた。声をかけても反応はなく、ただ黙って雨に打たれているだけだった。

八日目の夜。清はバス停に着くと、いつものように少女がいることを確認した。しかし今夜、少女は振り向いた。

「おじさん、傘貸してくれる?」

突然の声に、清は驚いた。か細い、しかし奇妙に落ち着いた声だった。

「ああ、いいよ」

清は傘を差し出した。少女は傘を受け取ると、不思議そうに見つめてきた。

「おじさんはいつも同じバスに乗るの?」

「ああ、仕事の帰りにね」

「わたしね、乗り遅れちゃったの。だからここで待ってるの」

少女はそう言うと、ポケットから一枚のカードを取り出した。それはバスの回数券だった。しかし、その回数券は明らかに古い。今は使われていないデザインで、発行日は15年前だった。

「これ、使えるかな?」

清は動揺を隠せなかった。「これ、今は使えないよ。随分前のものだね」

少女は悲しそうな顔をした。「そうか…でも私、家に帰らなきゃいけないの」

その時、バスのライトが見えてきた。

「あ、バスが来たよ」と清が言うと、少女は初めて微笑んだ。

「ありがとう、おじさん。もう大丈夫。わたし、今日こそ乗れるの」

バスが停車し、清が乗り込むと、驚いたことに少女も後に続いた。これまで一度もバスに乗ったことのなかった彼女が、今日は乗ってきたのだ。

バスの中は、清と少女、そして運転手だけだった。少女は清の隣に座った。

「おじさん、わたしのこと覚えてる?」

不意の質問に、清は首を傾げた。「いや、一週間前から見かけるようになったけど…」

少女はじっと清の顔を見つめた。「わたし、みゆきっていうの。おじさんとは前にも会ったことあるよ」

清の頭に、ぼんやりとした記憶が蘇ってきた。十五年前、この路線で起きた事故。雨の夜、バスは対向車線にはみ出し、乗客の大半が亡くなったという。

「あの日、おじさんは急に降りたよね。だからおじさんだけ助かったの」

清の体が震え始めた。その事故の日、清は確かにこのバス停で降りる予定だった。しかし、急な腹痛で一つ前の停留所で降りていた。それが命拾いしたのだと、後で知った。

「みゆき…君は…」

少女は微笑み、手を伸ばして清の手に触れた。その手は冷たく、まるで触れていないかのように感じた。

「おじさんの傘、返すね」

そう言うと、みゆきは傘を清に差し出した。しかし、清が受け取ろうとした瞬間、傘はすっとバスの床に落ちた。

「あれ…?」

清が傘を拾おうとした時、バスが急に揺れた。窓の外を見ると、見覚えのない道を走っている。街灯の少ない、暗い道だった。

「運転手さん、これどこに行くんですか?」

質問に答えて運転手が振り向いた時、清は恐怖で凍りついた。運転手の顔には目も鼻も口もなかった。

「おじさん、私たちと一緒に行こう」

みゆきの声が、不気味に響いた。バスの中には、気づけば他の乗客も現れていた。全員が無表情で、全身ずぶ濡れだった。

清は震える手でスマートフォンを取り出し、現在位置を確認しようとしたが、画面は真っ黒なままだった。

バスは加速していき、雨の降る夜道をどこまでも走っていった。清は必死に立ち上がり、停車ボタンを押した。バスは止まる気配がない。

「降ろしてくれ!」清は叫んだ。

みゆきは悲しそうな顔で言った。「おじさん、あの日私たちを置いていったよね。でも今日は一緒だよ。みんな待ってたんだ」

恐怖に駆られた清は、バスのドアに向かって走った。しかし、足が地面にめり込むように重くなる。見ると、床から黒い水が湧き出し、清の足首をつかんでいた。

「助けて…」清は絶望的な声で言った。

バスの中は次第に水で満たされていく。みゆきと他の乗客たちは、まるで水の中にいるかのように自然に呼吸していた。

「おじさん、もう大丈夫だよ。私たちと一緒に、最後まで乗るんだよ」

水が清の胸まで達した時、彼はポケットに手を入れ、何かを掴んだ。それはバスの回数券だった。自分が持っていたはずのないそれを、いつの間にか持っていたのだ。

「これ、使えるかな?」みゆきは微笑んだ。

水が清の顔を覆い、意識が遠のいていく中、最後に見たのはみゆきの微笑む顔と、彼女が差し出す回数券だった。


翌朝、警備員が発見したのは、終バスの時間を過ぎても雨の中でバス停に立ち尽くしていた一人の男性だった。倒れていた田中清の手には、古びたバスの回数券が握られていた。発行日は15年前。

それ以来、雨の夜の最終バスを待つ人々は、時折二人の姿を目撃するという。ずぶ濡れの少女と、黒いスーツの男性が、バス停で静かに立っている姿を。そして、彼らが乗るバスに乗り合わせた人は、二度と戻ってこないという噂だ。

バス停には今日も、古びた傘が置き忘れられたように立てかけられている。雨が降ると、誰も触れていないのに傘は開き、まるで誰かが差しているかのように揺れているという。