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押し入れの音

押し入れ

私の部屋の押し入れから、最初に音が聞こえ始めたのは、引っ越してきてちょうど一週間が経った頃だった。

カサカサ。カサカサ。

何かが動く、微かな音。深夜、静寂に包まれた部屋の中で、その音だけが耳に残る。最初は気のせいかと思った。古いアパートだから、建物自体が軋んでいるのかもしれない。あるいは、隣人の生活音か。でも、音の発生源は明らかに押し入れの中だった。

「ネズミかな」

そう思い込むことで、私は自分を安心させようとした。この古いアパートなら、ネズミの一匹や二匹がいても不思議ではない。翌日、管理人さんに相談してみようと決めた。

だが、その翌日も、その次の日も、私は結局管理人さんには言わなかった。どこか言いづらかったのだ。「大げさに思われるかも」という気持ちもあった。それに、日中はあの音も聞こえず、忙しさに紛れて忘れてしまうのだ。

しかし、夜になると必ず、あの音が戻ってきた。

カサカサ。カサカサ。時にはトントン。

そして次第に、私はその音に違和感を覚えるようになった。ネズミの動きにしては、どこか規則的すぎる。まるで意図を持って動いているような、そんな気がしてならなかった。

ある夜、勇気を出して押し入れに近づいた。耳を澄ましてみると、確かにその中から音がする。だが、手を伸ばして引き戸に触れた瞬間、音は突然止んだ。

「…誰かいるの?」

言葉が口から漏れた。馬鹿げているとは思いつつも、私は問いかけていた。もちろん、返事はない。ただ静寂だけが広がる。

その晩、私は押し入れの前に古い子供のおもちゃ—以前の住人が残していったと思われる小さな木製の汽車—を置いてみた。もしネズミがいるなら、おもちゃに興味を示すかもしれないという単純な発想だった。

翌朝、私はその場所を確認した。おもちゃは動いていなかった。「やっぱり気のせいだったのかな」と少し安堵しかけた瞬間、違和感に気づいた。

汽車の向きが変わっていた。昨夜私が置いた時は窓の方を向いていたのに、今は押し入れの方を向いている。

背筋に冷たいものが走った。

その日から、私は押し入れを開けることを恐れるようになった。昼間でさえ、その前を通るときには足早に過ぎるようになった。そして夜、あの音は確実に大きくなっていった。

カサカサ。トントン。ガタガタ。

もはやネズミの仕業とは思えない。明らかに人の気配だった。あるいは、人のような何かの。

夜中に目を覚ますと、私は押し入れの引き戸が少し開いていることに気づいた。確かに私は寝る前にしっかりと閉めたはずだ。心臓が早鐘を打つ中、勇気を振り絞って懐中電灯を取り、押し入れに向かった。

「誰かいるの?」

もう一度、馬鹿げた問いかけ。そして今度も返事はない。しかし、懐中電灯の光が届かない押し入れの奥に、何かがあるような気がした。

翌日、私は思い切って不動産屋に行き、以前の住人について聞いてみた。

「ああ、前に住んでいたのは小さな子供がいる家族でしたね。急に引っ越されたんですよ。理由は…」

不動産屋の男性は言葉を濁した。

「理由は?」

「いや、家族間のトラブルだと聞いていますが…実は子供さんが行方不明になったという噂もあって…」

その言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。

その晩、私は友人の家に泊めてもらうことにした。あの部屋には戻りたくなかった。しかし、いくつか必要な荷物を取りに、日が落ちる前に部屋に立ち寄った。

荷物をまとめていると、再びあの音が聞こえてきた。

カサカサ。カサカサ。

日中にこの音を聞いたのは初めてだった。恐怖で体が硬直する。それでも、何かに突き動かされるように、私は押し入れに向かった。今度こそ、この正体を確かめなければならない。

震える手で引き戸に触れる。ゆっくりと、ゆっくりと引き戸を開けていく。

すると—

押し入れの中は空っぽだった。何もない。ただ、奥の壁に小さな穴があるのが見えた。その穴から、微かな光が漏れている。

好奇心に駆られて、私はその穴に目を近づけた。

その瞬間、穴の向こう側から、誰かの目が私を見返していた。

大きく見開かれた、子供の目。

悲しみと恨みに満ちた、死んだ子供の目。

悲鳴を上げる間もなく、私の顔に向かって小さな手が伸びてきた。冷たく、生気のない手が。

「一緒に遊ぼう」

押し入れの奥から、かすれた子供の声が響いた。

私はその場に倒れ込み、気を失った。

気がついたのは病院のベッドの上だった。友人が心配して様子を見に来てくれたのだという。部屋の床に倒れていた私を発見し、救急車を呼んでくれたらしい。

医師は過労とストレスによる一時的な意識喪失だと診断した。友人は私の荷物を全て持ってきてくれていた。もう二度とあの部屋に戻る必要はない。

退院後、私は友人の家に一時的に居候することになった。ある日、荷物を整理していると、見覚えのない小さな木製の汽車のおもちゃが出てきた。友人に聞くと、それは私の荷物の中にあったという。

「これ、私のじゃないんだけど…」

その時、おもちゃの裏に何か刻まれているのに気づいた。小さく、かすれた文字で「助けて」と書かれていた。

そして夜、友人が寝静まった頃、隣の部屋から聞こえてきた。

カサカサ。カサカサ。

振り返ると、持ってきた荷物の山の中から、あの木製の汽車が自ら動き出していた。そして私の方向に、ゆっくりと向きを変えていくのだった。