春野雪は「ミュゼ」という小さなセレクトショップで働きはじめて3ヶ月が経っていた。駅から少し離れた路地裏にある店は、客足は多くないが、センスの良い店長が選ぶ洋服は根強いファンがついていた。
その日は平日の午後、客はまばらだった。窓から差し込む夕暮れの光が店内を柔らかく照らしていた。
「あの、これ試着してみてもいいですか?」
声の主は30代半ばくらいの女性客だった。黒のワンピースに黒のハイヒール、全体的に暗めの服装で、色白の肌が際立っていた。雪は彼女が店に入ってきたのに気づかなかった。
「もちろんです。試着室はあちらになります」
雪は奥の試着室を指さした。店の構造上、レジカウンターからは試着室の入り口が直接見えない位置にあった。
「ありがとうございます」
女性は微笑んで、手に持っていた白いブラウスとカーディガンを持って試着室へ向かった。
時間が経つにつれ、店内の客は徐々にいなくなっていった。閉店時間まであと30分になったころ、雪は試着室にまだ女性がいることを思い出した。
「お客様、いかがでしょうか?」
試着室に近づきながら声をかけたが、返事はなかった。カーテンは閉まったままで、中からは物音ひとつしない。
「失礼します、お客様?」
再び声をかけたが、やはり返事はない。雪は少し不安になり、試着室のカーテンの隙間から中を覗こうとした。隙間からは誰の姿も見えなかったが、何かがおかしかった。カーテンの裏側に淡い影が見えるような…。
勇気を出してカーテンを開けると、そこには誰もいなかった。ただ、フックには彼女が持っていったはずの白いブラウスだけが残されていた。
「あれ…?」
雪は困惑した。試着室から出る方法は一つしかなく、それは雪のいるレジカウンターの前を通る以外にない。しかし、女性が出ていくところを見た記憶がない。
「店長、さっきの黒いワンピースのお客様、見ませんでしたか?」
奥で在庫整理をしていた店長に聞くと、首を横に振った。
「今日はワンピース姿のお客さん、来てないよ?」
雪は説明しようとしたが、言葉に詰まった。確かに彼女は黒いワンピースの女性に試着室を案内したはずだ。しかし、店長は彼女を見ていないという。
閉店時間になり、雪は試着室に残された白いブラウスを手に取った。タグを確認すると、それは彼らの店では取り扱っていないブランドのものだった。
「これ、うちの商品じゃないですね…」
店長も不思議そうに首をかしげた。
「忘れ物かな?明日また来るかもしれないから、取っておこう」
その夜、雪は奇妙な夢を見た。試着室のカーテンの向こう側に立つ黒いワンピースの女性が、手招きをしている夢だった。
翌日、ミュゼに出勤した雪は、前日の出来事を思い出していた。店長に昨日の白いブラウスがどうなったか尋ねると、忘れ物ボックスに入れてあると言われた。
その日も店内は静かだった。昼過ぎ、試着室から物音がした。雪はレジカウンターから顔を上げ、試着室の方を見た。誰もそちらに向かった記憶はなかったが、カーテンがわずかに揺れていた。
「お客様?」
声をかけたが返事はない。カウンターから出て、試着室に近づくと、カーテンの隙間から冷たい空気が漏れ出してくるのを感じた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
再び声をかけたが、やはり返事はない。恐る恐るカーテンを開けると、そこには昨日の黒いワンピースの女性がいた。彼女は鏡に背を向け、じっと雪を見つめていた。
「あ、すみません。試着中でした」
女性は微笑んだが、その笑顔に温かみはなかった。
「いえ、こちらこそ突然失礼しました」
雪は慌ててカーテンを閉め、レジに戻った。心臓が早鐘のように鳴っていた。確かに彼女は昨日の女性だった。しかし、なぜ彼女が店に入ってくるところを見なかったのだろう?
1時間後、雪は試着室をチェックしに行った。カーテンを開けると、また誰もいなかった。しかし今度は昨日の白いブラウスが床に落ちていた。雪はぞっとした。あのブラウスは忘れ物ボックスにあるはずだ。
急いで忘れ物ボックスを確認すると、ブラウスはそこにもあった。全く同じデザイン、同じサイズの二枚のブラウス。一つは忘れ物ボックスに、もう一つは試着室の床に。
その夜、閉店作業をしていると、店長が不思議そうな顔をした。
「雪ちゃん、昨日の忘れ物のブラウス、お客さんが取りに来たよ」
「え?いつですか?」
「さっき。黒いワンピースの女性だった。君が商品整理してる間に来たんだ」
雪は背筋が凍るのを感じた。彼女は一日中店内にいて、黒いワンピースの女性が来たのを見ていない。そして何より、忘れ物ボックスのブラウスはまだそこにあったはずだ。
「店長、そのブラウスまだ忘れ物ボックスにありますよね?」
店長は首をかしげた。「渡したよ?ほら、もうないでしょ」
確かに忘れ物ボックスには何もなかった。雪は混乱した。試着室の床に落ちていたもう一枚のブラウスはどうなったのだろう?
その週末、雪は一人で店番だった。午後の静かな時間、また試着室からかすかな物音が聞こえた。
恐る恐る近づくと、カーテンの隙間から誰かが覗いているように見えた。雪が声をかけようとした瞬間、カーテンの隙間から白い指先が現れ、雪を招き入れるように手招きした。
「どなたですか?」声は震えていた。
返事はなく、ただカーテンが少し開いた。中からは冷たい空気と共に、かすかな女性の泣き声が聞こえてきた。雪は足が竦んで動けなかった。
そのとき、店の入り口のベルが鳴り、お客が入ってきた。雪はハッとして振り返ると、黒いワンピースの女性が立っていた。
「あの…忘れ物を取りに来ました」
雪は混乱した。彼女が試着室にいるのではないなら、試着室の中にいるのは誰なのか?
「少々お待ちください」
恐る恐る試着室に向かうと、カーテンは閉じられ、中からの物音も消えていた。勇気を出してカーテンを開けると、そこには誰もいなかった。ただ、床には白いブラウスが一枚、そして新たに黒いワンピースが置かれていた。
雪は震える手でそれらを拾い上げ、入り口で待つ女性に向かった。しかし、振り返ると彼女の姿はなかった。店内には雪一人だけだった。
その夜、雪は最後の閉店作業を終えてから、試着室を念入りに調べた。カーテンの裏側、鏡の周り、床下のすき間、どこを探しても特に変わったところはない。
翌朝、雪が開店準備をしていると、昨日拾ったブラウスとワンピースが忘れ物ボックスにあるのを見つけた。確かに昨日は家に持ち帰ったはずだった。
その日、雪は店長に話そうと決めた。しかし、話し始める前に、店長から驚くべき話を聞かされた。
「実はね、この店は以前、別の洋服店だったんだ。でも5年前に閉店したんだよ」
「どうしてですか?」
「ここで働いていた若い女性店員が、試着室で亡くなったからだって。自殺だったらしいけど…」
雪は言葉を失った。
「その人、白いブラウスを着ていたって噂だよ。もう一つ気になるのが、彼女が最後に接客したお客さんが、店から出ていくのを誰も見てないらしいんだ。黒いワンピースを着た女性だったって」
雪は背筋が凍るのを感じた。
「なんでそんな話をするんですか?」
店長は真剣な顔で言った。「昨日、閉店後に防犯カメラの映像を確認してたんだ。雪ちゃんが試着室で誰かと話してる様子が映ってたんだけど…カメラには雪ちゃん一人しか映ってなかったんだよ」
その瞬間、店内の電気が一瞬ちらついた。そして試着室のカーテンがゆっくりと動き、隙間が生まれた。
雪と店長は凍りついたように立ち尽くした。カーテンの隙間からは、白いブラウスを着た女性と黒いワンピースの女性が並んで立ち、二人同時に手招きしているのが見えた。
「彼女たちは…出られないんだ」店長はか細い声で言った。「試着室の中から…」
カーテンの隙間は少しずつ広がり、二人の女性の姿がはっきりと見えてきた。そして彼女たちの後ろには、無数の人影が密集していた。みな同じ方向を向き、同じように手招きをしていた。
「あの試着室は…出口なんだ」店長は震える声で続けた。「でも、入った人は二度と戻ってこれない…」
雪はようやく理解した。あの試着室から消えた客たちは皆、どこかへ連れて行かれたのだ。そして彼らは新たな犠牲者を求めて、カーテンの隙間から手招きを続けている。
試着室のカーテンは完全に開いた。中には誰もいなかった。ただ、床には無数の洋服が積み重なっていた。それは全て、行方不明になった人々の忘れ物だった。
その中で雪は、自分が今朝着てきたはずのカーディガンを見つけた。