夜の帳が降りた東京の郊外、粟飯原駅は人気がなかった。最終電車が過ぎ去り、プラットフォームには私一人だけが立っていた。
「もう帰らないと」
そう呟いたその時、懐かしい旋律が耳に飛び込んできた。駅メロディ。一日に何度も流れる単なる合図のはずなのに、今夜のそれは違っていた。
メロディの中に、明らかに彼女の好きだった曲が混ざっている。
美咲。半年前に事故で亡くなった彼女の姿が、急に鮮明に蘇った。
「気のせいだ」
そう思いながらも、足は駅の出口へと向かうことを拒んでいた。再び流れるメロディ。確かに彼女が日常的に口ずさんでいた曲だ。偶然にしては出来すぎている。
翌日も、私は粟飯原駅に足を運んだ。日中は普通の駅メロディが流れるだけだった。しかし夜、最終電車が去った後、再びあの特別なメロディが流れ始めた。
「美咲…お前なのか?」
声をかけてみても、返事はない。ただ駅メロディが繰り返し流れるだけだ。翌日も、その翌日も、私は最終電車の後に駅に残るようになった。
「山崎さん、最近顔色悪いですよ」
会社の同僚が心配そうに声をかけてきた。睡眠不足だろう。毎晩、駅で過ごす時間が長くなっていた。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
その夜も私は粟飯原駅にいた。駅員室のシャッターは閉まり、完全な無人駅となっていた。時計は午前0時を回っていた。
「今日も来ちゃった」
自分でも理解できない行動だった。しかし、美咲との繋がりを感じられるのはここだけだった。
「山崎くん…」
微かな声が聞こえた気がした。振り返ると、誰もいない。再び駅メロディが鳴り、今度は以前より長く続いた。
「山崎くん…会いたかった…」
今度ははっきりと聞こえた。美咲の声だ。でも、どこにもその姿は見えない。
「美咲、どこにいるんだ?」
答えはなく、再び駅メロディが流れる。その旋律に合わせるように、駅の照明が一瞬ちらついた。
「山崎くん…こっち…」
ホームの端から声が聞こえた。私は恐る恐る近づいていく。ホームの先には線路と闇しかない。
「美咲?」
返事はなかったが、駅メロディが一段と大きくなった。そして突然、ホームの照明が全て消えた。
真っ暗闇の中、私は動けなくなった。そして、目の前に微かな光が見えた。それは美咲の姿を映し出していた。
「やっと会えた、山崎くん」
半透明の美咲が微笑んでいた。生前と同じ笑顔だったが、どこか悲しげだった。
「美咲…どうして…」
「私、この駅で死んだの」
私は言葉を失った。美咲は事故で亡くなったと聞いていた。交通事故だと。
「あの日、最終電車を待っていたの。でも、ホームから落ちてしまって…」
そして彼女は続けた。誰にも見つけられずに亡くなり、その後、別の場所で発見されたことを。事故として処理されたことを。
「私、一人で寂しかったの…だから呼んだ…」
駅メロディが再び流れ始めた。美咲は嬉しそうに微笑んだ。
「このメロディで呼んだの。あなたが来てくれて嬉しい」
美咲の姿がより鮮明になっていく。そして彼女は手を差し伸べた。
「一緒に来て…もう寂しくないから…」
恐怖と懐かしさが入り混じる感情の中、私は彼女の手を取ろうとした。
「山崎さん!」
突然、背後から声がした。振り返ると、駅員が懐中電灯を持って立っていた。
「ここで何をしているんですか?危ないですよ」
駅員の光が当たると、美咲の姿は消えていた。
「すみません…」
何も説明できず、私は駅を後にした。
翌日、私は会社を休み、美咲の死について調べ始めた。警察の記録では確かに交通事故になっていた。しかし、SNSを遡ると、美咲が最後に投稿したのは粟飯原駅のホームからだった。「最終電車待ち」というキャプションと共に。
そして私は決意した。もう一度、美咲に会いに行こう。
その夜も、私は粟飯原駅に向かった。しかし、ホームに着くと様子が違った。工事中の看板があり、ホームの一部が封鎖されていた。
「すみません、何の工事ですか?」と最後の駅員に尋ねた。
「ああ、駅メロディのシステムを交換するんですよ。この前、夜中に勝手に鳴り出して…」
駅員は不思議そうに答えた。
「そうですか…」
私は美咲が立っていた場所に向かった。工事の囲いがされているその場所で、小さな花束を見つけた。添えられたカードには「美咲へ 安らかに」と書かれていた。
駅員ではない誰かが知っていたのだ。美咲の真実を。
その夜は駅メロディは鳴らなかった。美咲の姿も見えなかった。
数日後、私は駅の管理事務所を訪れた。半年前の監視カメラの映像を見せてもらえないかと頼んだ。最初は断られたが、美咲の家族だと嘘をついて何とか許可を得た。
そこには、ホームで眠り込んでいた美咲の姿があった。そして最終電車が来る直前、彼女はゆっくりとホームの端に歩いていき、そのまま落ちていった。自ら命を絶ったのだ。
その日から、私は毎晩、粟飯原駅に花を供えるようになった。駅メロディは新しいシステムに変わり、もう美咲の好きだった曲は混ざらない。
でも時々、誰もいない夜のホームで、かすかに聞こえるような気がする。
「もう大丈夫…安心して…」
美咲の声と、遠くで鳴る駅メロディが。
私は今でも信じている。彼女は私を引き寄せたのではなく、真実を知って欲しかっただけなのだと。そして私に、前に進んで欲しいと願っていることを。
今日も粟飯原駅の新しい駅メロディが流れる。悲しみに満ちた旋律ではなく、希望を感じさせる音色に変わった。
美咲は今、安らかに眠っているだろう。そして私は、彼女が残した最後のメッセージを胸に、明日へと歩き続ける。