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誰かが入れたコーヒー

コーヒー

週の真ん中だというのに、僕の仕事は終わりそうになかった。デザイナーとして働き始めて5年目になるが、今回のクライアントは特に難しい。何度修正しても「なんか違う」の一言で突き返される。締め切りは明日の午前中。もう深夜の1時を回っているというのに、まだモニターと睨めっこしていた。

マンションの一室、6畳の仕事部屋で僕は額をこすりながら画面を見つめていた。夜勤の習慣は体にしみついて、この時間帯が一番集中できる。昼間は電話やメールの対応で細切れになる時間を、夜は一気に繋げて作業に没頭できる。

「あと少しだ…」

モニターの明かりだけが照らす部屋で、キーボードを叩く音だけが響く。窓の外は真っ暗で、時々通る車のヘッドライトが天井に光の模様を描いては消えていく。周りの住人はとっくに眠りについているだろう。

そんな静寂を破ったのは、ふわりと漂ってきた香りだった。

コーヒーの香り。

最初は気のせいかと思った。昼間飲んだコーヒーの記憶が蘇っただけかもしれない。でも、次第にその香りは濃くなっていく。

「おかしいな…」

一人暮らしの部屋。コーヒーメーカーはキッチンにあるが、今日は使っていない。タイマーセットしたわけでもない。あの古い電気ポットだって、使う時以外はコンセントを抜いている。

それでも、コーヒーの香りは確かに漂ってきている。それも、今淹れたばかりのような、湯気と共に立ち上る新鮮な香り。

「ちょっと休憩するか」

椅子から立ち上がり、キッチンへと向かう。廊下を通り過ぎると、コーヒーの香りはさらに強くなった。

そして、キッチンに入ったとき、僕は足を止めた。

カウンターの上に、一杯のコーヒーが置かれていた。

僕のお気に入りの青いマグカップ。湯気が立ち上り、丁寧にドリップされたコーヒーが入っている。

「何だこれ…」

恐る恐る近づくと、確かに熱々のコーヒーだった。ドリッパーは洗われてシンクに伏せられている。電気ポットはスイッチが入っていて、お湯が沸いている状態だった。

冷や汗が背中を伝った。この部屋には僕しかいないはずだ。ドアはチェーンまでかけて施錠してある。窓も全て閉め切ったまま。

だれが…いつ…このコーヒーを淹れたんだ?

「冗談だろ…」

声に出して言っても、誰も答えはしない。部屋の中は相変わらず静まり返っている。ただコーヒーの香りだけが、確かにそこにあることを主張している。

マグカップを手に取ってみる。熱い。今淹れたばかりのような温度だ。僕の部屋に侵入者がいるなんて考えたくない。でも、それ以外の説明がつかない。

「誰かいるのか?」

おそるおそる声をかけてみるが、返事はない。リビングを見回し、バスルームを確認し、寝室まで調べてみたが、どこにも人の気配はない。すべての扉は閉まったまま、窓の鍵も全てかかっている。

再びキッチンに戻ると、コーヒーはまだそこにあった。幻ではない。

「もしかして…自分で入れたのを忘れたのか?」

疲れで記憶が飛んでいる可能性も考えた。でも、コーヒーを入れるのに必要な一連の動作—お湯を沸かし、豆を挽き、ドリッパーをセットし、お湯を注ぐ—そんな手順を無意識のうちにやるだろうか。しかも、この忙しい締め切り作業の最中に。

それでも、他に説明がつかない。恐る恐るマグカップに手を伸ばし、一口飲んでみた。

苦くて、でも深みのある味。いつも自分で入れるコーヒーと同じ味だ。

「気のせいか…」

気を取り直して、仕事に戻ることにした。マグカップを持って仕事部屋へ戻る。不思議なことに、コーヒーのおかげで集中力が戻ってきた。次々とアイデアが浮かび、クライアントの要望に近づいていく感覚があった。

気がつけば、時計は午前3時を指していた。そして、コーヒーも飲み干していた。

「よし、これでどうだ」

最後の修正を終え、データを保存する。明日の朝になれば送信しよう。疲れがどっと押し寄せてきた。空になったマグカップを持って再びキッチンへ向かう。

シンクにマグカップを置いた時、目に入ったのは電気ポットだった。確かに電源は入っていて、お湯が沸いている。けれど、よく見ると…

「コンセント、抜けてる…?」

電気ポットのコードはコンセントから抜かれていた。それなのに、スイッチのランプは赤く点灯している。あり得ない光景だった。

恐る恐る手を伸ばして、ポットに触れてみる。冷たい。完全に冷えている。

「じゃあ、このお湯は…?」

背筋に冷たいものが走った。シンクに置いたマグカップを見ると、底に黒い何かが沈殿している。コーヒーの出がらしにしては濃すぎる黒さだ。

その時、背後から物音がした。振り返ると、リビングのドアがゆっくりと閉まっていく。

「誰だ!」

声を上げて追いかけたが、ドアの向こうには誰もいなかった。代わりに見つけたのは、床に落ちた一枚の紙切れ。拾い上げてみると、そこには走り書きで一行だけ書かれていた。

『毎晩、あなたのコーヒーにはとっても特別な材料を入れています。どうぞお楽しみください。——隣人より』

胃の中が熱くなり、喉の奥がひりつく感覚。今飲んだコーヒーの味が、口の中で急に変質したように感じた。

部屋を出て、隣の部屋のドアを見る。そこには「退去済み」の張り紙。不動産会社によれば、この部屋の住人は一ヶ月前に出ていったはずだった。

それから毎晩、仕事に集中していると、キッチンからコーヒーの香りがしてくる。でも、今は決して飲まない。ただ、朝になるとマグカップは空になっている。

誰かが僕のコーヒーを飲んでいる。そして、その誰かは、きっと僕の傍らにいる。今も。