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後ろを振り向いたら負け

登山

雨上がりの山道は、足元が滑りやすく神経を使う。私たち四人は足を取られないよう慎重に下山していた。標高1800メートルの山頂からの帰り道、疲労と達成感が入り混じる心地よい疲れが体を包んでいた。

「もう少しで林道に出るはずだよな」と前を歩く友人の健太が言った。彼は登山経験が豊富で、今回のリーダー役を務めていた。その声には軽い焦りが混じっていた。日が傾きはじめ、山の影が少しずつ長くなっていた。

「すぐだって。地図見たら、あと30分もあれば駐車場だよ」と陽子が笑顔で答える。彼女も経験豊富な登山者だ。その横で竜也が重そうなリュックを背負い直しながら、「早く温泉に行こうぜ」と言った。

私は最後尾を歩いていた。山登りは今回が二度目で、他の三人に比べると圧倒的に経験不足だ。同じ大学のサークル仲間に誘われたのがきっかけだった。

道はやがて狭くなり、両側に鬱蒼とした木々が迫ってきた。苔むした岩が点在し、雨で濡れた落ち葉が地面を覆っている。足を踏み入れるたびに、湿った土の匂いが鼻をつく。

突然、目の前の木立の間から、古びた道標が見えた。

「あれ、なんだろう」と私が言うと、健太が足を止めた。

「へえ、こんな所に道標があるなんて」

皆で近づいてみると、それは木製の小さな祠のような形をしていた。表面は風雨で傷み、文字は薄れかけていたが、かろうじて読むことができた。

『此の径(みち)行く者、後ろを振り向かぬこと』

「なんだこれ、呪いか?」と竜也が笑った。

健太は少し考え込んだ様子で「この辺りは昔から山岳信仰が強い地域だからな。何か言い伝えがあるのかも」と言った。

「でも、なんで振り向いちゃいけないんだろう?」と陽子が首をかしげる。

「まあ、気にしないで行こうよ。もうすぐ暗くなるし」と健太は再び歩き始めた。

私たちは狭い山道を一列になって歩き続けた。道標のことはすぐに忘れ、それぞれの話に花を咲かせながら下っていく。竜也は大学の講義の愚痴を言い、陽子は次の登山計画について話していた。

その時だった。

「誰か、呼んでる?」

突然、竜也が足を止めて言った。私たちも立ち止まる。

「何も聞こえないけど」と陽子。

「いや、確かに誰かが名前を呼んだ気がした…」

竜也は不安そうな顔をして辺りを見回した。四方は深い森で、人の気配はまったくない。

「気のせいだよ。疲れてるんじゃない?」と健太が言った。

竜也は納得したように頷いたが、その表情には不安の色が残っていた。

再び歩き始めて5分ほど経った頃だ。今度は私が声を聞いた。

「竜也くん…」

かすかな、風のような声。しかし、確かに私の耳に届いた。振り返ると、竜也は顔面蒼白になっていた。

「今のって…」

「なに?なに聞こえたの?」と陽子が不安そうに尋ねた。

「いや、なんでもない」と私は答えた。山の空気が澄んでいるから、遠くの音が聞こえたのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。

しかし、竜也の様子がおかしかった。彼は時折立ち止まっては後ろを見るようになっていた。

「どうしたの?」と陽子が心配そうに尋ねる。

「いや…なんか、後ろから見られてる気がして…」

健太は眉をひそめた。「さっきの道標のせいで気になるんだろ。気にするなって」

その言葉に、竜也は苦笑いを浮かべた。「そうだな、変な話だよな。振り向いたら負けってことか」

私たちは再び歩き始めた。しかし、竜也の不安は私たちにも伝染したのか、会話が自然と途切れていった。

山の影が長くなり、森の中は薄暗くなってきた。ヘッドライトを付けるほどではないが、足元には注意が必要だ。鳥のさえずりも止み、森の静けさが耳に突き刺さるようだった。

「あと15分くらいかな」と健太が言った時、竜也が突然悲鳴を上げた。

「な、何だよ!」

彼は自分の登山リュックを脱ぎ捨て、肩を激しく叩いていた。

「何かいる!何か俺の肩にいる!」

私たちは驚いて彼を見た。しかし、彼の肩には何もなかった。

「何もないよ、竜也」と陽子が言った。

竜也は混乱した顔で自分の肩を見た。確かに何もない。

「おかしい…何かが触れたような…」

「ほら、疲れてるんだよ。あともう少しだから頑張ろう」と健太が言い、竜也のリュックを拾い上げた。

私たちはまた歩き始めた。しかし、竜也は明らかに動揺していた。彼は常に周囲を警戒し、時折身震いしていた。

そして、再び声が聞こえた。

「振り向いて…」

今度は私だけでなく、健太も陽子も聞いたようだった。三人とも足を止め、お互いの顔を見合わせた。竜也は先に少し進んでいたが、私たちが止まったことに気づいて振り返った。

「どうした?」

「今の声…聞こえなかった?」と健太が尋ねた。

竜也は首を横に振った。「何も聞こえてないよ」

「『振り向いて』って…」と陽子が小さな声で言った。

その瞬間、竜也の表情が変わった。彼は突然、硬直したように動きを止めた。目が大きく見開かれ、口が半開きになっている。

「竜也?どうした?」

彼は応答しなかった。ただ、ゆっくりと首を回すように後ろを向いた。

そして、彼は見たのだ。何を見たのかは、私たちにはわからなかった。ただ、竜也の顔からすべての血の気が引いていくのが見えた。彼の目は恐怖で見開かれ、口は言葉を発しようとしたが何も出てこなかった。

次の瞬間、竜也は叫び声も上げずに崩れ落ちた。

「竜也!」

私たちは慌てて駆け寄った。竜也は呼吸をしているが、意識がない。顔は青白く、全身から冷や汗が吹き出していた。

「救急車を呼ばないと!」と陽子が叫んだ。

健太は必死で携帯を取り出したが、圏外だった。「ここじゃ電波が届かない。早く下山しないと」

私と健太で竜也を抱え、陽子がリュックを持った。重い体を支えながら、私たちは必死で山道を下った。

10分後、ようやく林道に出た時、竜也が目を覚ました。

「大丈夫か?」と健太が問いかけると、竜也はぼんやりとした表情で頷いた。

「何があったんだ?」

竜也は口を開いたが、声が出なかった。彼は首を振り、両手で顔を覆った。震える手の間から、涙が零れ落ちているのが見えた。

その夜、山麓の旅館で休んだ私たちは、竜也の様子を心配しながら翌朝を迎えた。彼は一晩中、誰とも話さなかった。

朝食の席で、竜也は初めて口を開いた。

「あの道標…本当だったんだ」

彼の声は掠れていた。

「何を見たの?」と陽子が恐る恐る尋ねた。

竜也は長い間黙っていた。やがて、震える声で言った。

「自分自身だよ…」

私たちは困惑した表情で彼を見た。

「登山リュックを背負って、こっちに向かって歩いてくる自分を見たんだ。でも、顔が…顔が…」

竜也はそれ以上言葉を続けられなかった。彼は再び両手で顔を覆い、肩を震わせた。

私たちは帰りの車の中でも沈黙を守った。竜也は後部座席で窓の外を見つめ、時折身震いしていた。

あれから一週間が経った。竜也は大学にも来ていない。電話にも出ない。

昨日、彼のアパートを訪ねたが、返事はなかった。心配になった私たちは大家さんに頼み込んで部屋を開けてもらった。

部屋は整然としていた。荷物もそのままで、出て行った形跡はない。ただ、彼の登山リュックだけが、部屋の中央に置かれていた。

開いてみると、中には一枚の紙切れだけが入っていた。そこには震える文字で、こう書かれていた。

『後ろを振り向いたら負け。でも、負けたら、次は誰かに勝たなきゃいけないんだ。ごめん。』

その夜、私は眠れなかった。部屋の隅で、登山リュックを背負った自分が立っているような気がして。そして時々、後ろから誰かが私の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がして。

振り向いてはいけない。絶対に振り向いてはいけない。

でも、いつまで耐えられるだろう?

明日、あの山に戻ろうと思う。あの道標に会いに。そして、竜也を探しに。

彼が見たものを、この目で確かめるために。

後ろを振り向かずに、前だけを見て進もう。

振り向いたら、負けだから。