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社長はもういない

オフィスのPC

退勤前にパソコンの電源を落とそうとした矢先、チャットアプリの通知音が鳴った。

「今日の企画書、もう一度見直してくれ。明日の取引先との打ち合わせに間に合うように」

差出人は、三ヶ月前に亡くなった森田社長だった。

私は画面を凝視し、自分の目を疑った。何かの悪戯だろうか。システム管理者に連絡して、故人のアカウントが不正使用されていないか確認すべきだった。だが、そのとき私は疲れていた。長時間の残業で頭が働かず、翌朝の対応に回すことにした。

「誰かの冗談だろう」と独り言を呟き、メッセージを無視して会社を後にした。


翌朝、出社するとすぐに総務部の山田が私の席にやってきた。

「中村さん、昨夜のメッセージ見た?」

「ああ、森田社長のアカウントからのやつだろ?誰かのいたずらじゃないの?」

山田は眉をひそめた。「いや、私も受け取ったんだ。それに佐藤部長も鈴木も。みんな森田社長からメッセージが来てる」

私は言葉を失った。複数人に送られているとなると、単なるいたずらではないかもしれない。

「システム障害じゃないか?」と私は言った。

「ITに確認したけど、異常はないって。それより…」山田は声をひそめた。「昨夜、返信しなかった北川さん、今朝から体調崩して休んでるらしいよ」

何かが私の背筋を走った。


その日、私はいつも以上に仕事に集中できなかった。頭の隅では常に森田社長のメッセージのことが引っかかっていた。昼食時、同僚たちは皆それについて話していた。全社員に同様のメッセージが届いていたらしい。

誰かが「森田社長の呪い」と冗談めかして言ったとき、席を立っていた鈴木が突然、咳き込み始めた。それはただの咳ではなく、何かに喉を詰まらせたような苦しそうな音だった。彼女の顔が青白くなり、膝から崩れ落ちた。

救急車が到着するまでの間、鈴木は「返信…しなきゃ」と繰り返していた。


その夜も、私のパソコンに森田社長からのメッセージが届いた。

「中村、新プロジェクトの数字が合っていない。もう一度確認してくれ」

私は震える指でキーボードを打った。

「はい、確認します」

送信ボタンを押した瞬間、寒気がした。自分が何をしているのか分からなくなった。亡くなった人間とやり取りをしているなんて。

すぐに返事が来た。

「ありがとう、中村。君は信頼できる」


週末、私は出社することにした。誰もいない土曜日の会社は、いつもと違う空気に包まれていた。

森田社長の部屋は、彼の死後も手付かずのままだった。新しい社長は決まったものの、森田の部屋を使うことを避けていた。

私はその部屋の前に立った。そっとドアノブに手をかけると、固く閉ざされていると思っていたドアが、軽く開いた。中に入ると、部屋は整然としていた。デスクの上にはパソコンがあり、スクリーンセーバーが流れていた。

誰かが部屋を使っているようだった。

カーソルが動き、スクリーンセーバーが消えた。チャットアプリが開き、メッセージが入力される音がした。

「中村、来てくれたんだね」

画面に表示されたその文字に、私は凍りついた。

「社長…?」

「ああ、会社が心配でね」キーボードが独りでに動き、文字が打たれていく。「死んでも仕事は続くものだよ」

私は後ずさりした。「これは…冗談ですよね?誰かがいるんでしょう?」

「私はここにいるよ、中村。会社を離れることはできないんだ」

キーボードの音が続く。それは次第に大きく、激しくなった。

「みんな、私の指示を無視している。仕事に集中していない。これでは会社がつぶれてしまう」

私は恐怖に震えながらも、何かを悟った。森田社長は、死んでもなお会社のことを心配している。彼の執着が、この現象を引き起こしているのだ。

「社長、会社は大丈夫です」私は言った。「皆、一生懸命働いています。新しい社長も決まりました」

キーボードの音が止まった。しばらくの沈黙の後、再び文字が現れた。

「そうか…私はもう、必要ないのか」

「社長が築いた会社は、しっかり受け継がれています。どうか…安心してください」

部屋の温度が急に下がった気がした。

「わかった。しかし一つ頼みがある」

「何でしょうか」

「最後の仕事を手伝ってほしい」


翌週の月曜日、全社員が集まる緊急会議が開かれた。新社長が立ち上がり、声を詰まらせながら告げた。

「森田前社長の遺志により、彼の最後のプロジェクトを実行することになりました」

それは森田社長が生前から温めていた社会貢献プロジェクトだった。彼の死によって中断されていたが、今再び動き出そうとしていた。

会議室の隅に置かれたパソコンの画面が、一瞬だけ明滅した。


それから一ヶ月後、プロジェクトは無事に完了した。発表会の日、私は森田社長の部屋を訪れた。部屋は空っぽで、パソコンも撤去されていた。窓から差し込む陽の光が、部屋を明るく照らしていた。

その夜、私のパソコンにチャットの通知が入った。

「ありがとう、中村。もう安心して旅立てる」

それが森田社長からの最後のメッセージだった。

翌朝、IT部門から全社メールが届いた。「システムメンテナンスにより、旧アカウントをすべて削除しました」

私は微笑んだ。森田社長は、最後の仕事を終えて、本当にいなくなったのだ。

だが時々、残業で遅くなった夜、オフィスの片隅でキーボードを打つ音が聞こえることがある。誰もいないはずの部屋から、仕事に没頭する音が。

そんなとき、私たちは小さく呟く。

「社長、もう休んでください」

すると不思議と、その音は止む。

しかし次の朝、デスクには常に新しい指示書が置かれている。宛名はなく、差出人の名前もない。だが皆、誰からのものか知っている。

社長はもういない。

けれど、会社には今でもいる。