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試供品のヘッドホン

試供品のヘッドホン

電子機器の展示コーナーに立ち、私は何度目かの深呼吸をした。冷房の効いた空気が肺に入ると、緊張が少しだけ和らいだ。

「大丈夫ですか、鈴木さん?」

振り返ると、石田課長が心配そうな顔で私を見ていた。エスカレーターを降りてきた客がチラチラと私たちを見ている。店長になったばかりの私にとって、この「サウンドシティ渋谷店」は広すぎた。

「はい、大丈夫です。昨日の件で少し…」

石田課長は小さく頷いた。昨日、音響コーナーの担当だった佐藤が突然退職したのだ。理由は「個人的な事情」とだけ。丁度、新製品ヘッドホンの展示が始まった直後だった。

「あのヘッドホンのことですか?」

石田課長がヘッドホン試聴コーナーを指差す。ガラスケースに鎮座する最新モデル『SH-X900』。黒く艶やかな外装に赤いラインが映える高級機だ。メーカーからの押し付けではなく、先月の展示会で私自身が選んだ商品だった。

「いや、あれは問題ないと思います。売れ行きも好調ですし」

その言葉とは裏腹に、胸の奥で何かが引っかかっていた。佐藤は退職する前日、あのヘッドホンを試聴した後、妙に青ざめた顔をしていた。


閉店作業を終え、最後の確認を行っていると、ヘッドホン試聴コーナーから微かな音が聞こえた。静まり返った店内で、その音は不気味に響いた。

コーナーに近づくと、展示台のSH-X900から小さな音漏れがしている。誰かが電源を切り忘れたのか。手に取ろうとした瞬間、「切らないで」と囁くような声が聞こえた気がした。店内の静寂に神経が高ぶっているだけだ、と自分に言い聞かせ、ヘッドホンの電源を切った。

翌朝、出勤すると西野という女性スタッフが青ざめた顔で待っていた。

「店長、あのヘッドホン…試聴したんですけど」

「SH-X900?どうかしたの?」

「…なんか、私の名前を呼ぶ声が聞こえたんです」

「名前?」

「はい。『麻衣…麻衣…』って。最初はデモ音源かと思ったんですけど、私の名前なんて入ってるわけないですよね…」

笑い飛ばそうとしたが、西野の顔は真剣だった。

「それだけじゃないんです。『あの日のこと、誰にも言ってないよね』って…」

西野は言葉を詰まらせた。

「あの日って?」

「…高校生の時、友達のカバンから財布を盗んだことがあって…誰にも言ってないはずなのに」

西野は震える手で顔を覆った。


その日から、奇妙な出来事が続いた。試聴したスタッフが次々と「名前を呼ばれた」「過去の秘密を囁かれた」と証言するようになった。しかし不思議なことに、お客さんからの苦情は一件もなかった。

一週間後、早朝の店内で商品チェックをしていると、試聴コーナーに座り込む男性スタッフを見つけた。山田という入社2年目の社員だ。

「山田、どうしたんだ?」

返事はない。ヘッドホンを付けたまま、虚空を見つめている。肩に触れると、彼はゆっくりとヘッドホンを外した。

「店長…あいつ、わかってるんです」

「あいつ?」

「ヘッドホンの中の…あいつが。俺が先月、在庫をネットで転売してたこと」

山田の額から冷や汗が流れていた。

「『山田くん、証拠は全部残ってるよ』って…」

その日、山田は退職届を出した。


メーカーに問い合わせても、特に異常はないと返答があった。試聴機を新品に交換してもらったが、状況は変わらなかった。スタッフの間で噂が広がり、試聴コーナーに近づく者はいなくなった。

ある夜、残業をしていると、またあのヘッドホンから微かな音が漏れているのが聞こえた。今夜こそ確かめてやろうと思い、おそるおそる装着した。

最初は何も聞こえなかった。通常のデモ音源が流れる。しかし数十秒すると、音楽が途切れ、静寂が訪れた。

「鈴木さん…」

はっきりと自分の名前が聞こえた。声は妙に親しげで、どこか懐かしさを感じる。

「忘れたふりをしても無駄ですよ」

心臓が早鐘を打ち始めた。

「十年前、渋谷の交差点で…あの女の子を助けなかったこと」

血の気が引いた。十年前、私はこの渋谷で目の前で起きた交通事故を見て見ぬふりをした。誰も気づかないはずだった、私だけの秘密が。

「彼女は今も苦しんでいます。私と同じように」

汗が背中を伝った。

「私はこのヘッドホンの中にいます。試作段階で工場で事故があったんです。私の血が…回路に…」

声が途切れた。そして、今度は別の声が重なり始めた。佐藤、西野、山田…そして知らない名前が次々と呼ばれる。声が重なり、うねりとなり、頭の中で渦を巻いた。

「みんな秘密を持っている。みんな罪を背負っている。鈴木さんも、私たちの仲間になりませんか?」

パニックに陥り、ヘッドホンを投げ捨てた。床に落ちたヘッドホンからは、まだ小さな囁き声が聞こえていた。


翌朝、警備員が店内で私の姿を見つけることはなかった。防犯カメラには、ヘッドホンを装着したまま店の奥へと歩いていく私の姿が映っていた。その後、私が映ることはなく、出口からの退出も記録されていなかった。

捜査の過程で、渋谷店の地下倉庫から、過去に行方不明になった十数名の人物の持ち物が発見された。この家電量販店が建つ前、この場所には小さな電子工場があったという。SH-X900のメーカーも、この土地で試作品の製造を行っていたことが判明した。

そして今、家電量販店サウンドシティ渋谷店の試聴コーナーには、新しいヘッドホンSH-X950が展示されている。黒く艶やかな外装に赤いラインが映える高級機だ。

店員によれば、このモデルは非常に没入感が高く、まるで誰かが耳元で話しかけているような臨場感があるという。時々、試聴した顧客が青ざめた顔をして立ち去ることもあるが、それは音質の良さに驚いているだけだろう。

ただ、閉店後、誰もいなくなった店内で、あのヘッドホンから小さな囁き声が聞こえることがある。

「新しい友達、待ってるよ…」