残業続きの月曜日、終電間際に滑り込んだ地下鉄はガラガラだった。私、佐藤雄一は人の少ない最後尾の車両に座り、スマホを眺めながら十五分ほどの帰路に就いた。
疲れ切った頭で会社のトラブルを反芻していると、あっという間に降車駅に到着してしまった。普段はこの駅で降りるのは私を含めて十人程度だが、今日は終電ということもあり、わずか三人だけだった。残りの二人は改札を出ると同時に足早に立ち去り、駅構内に残ったのは私一人だけだった。
駅員も最小限の人数しかいない時間帯。改札を出る際、いつもの駅員の姿がなかったことに少し違和感を覚えた。無人改札機に切符を入れ、外に出る。
午前0時23分。
家までは歩いて七分ほど。疲労で足取りが重くなり、明日の仕事に備えてすぐに寝たいという思いと、何か口にしたいという欲求が拮抗していた。そんな時、改札横の売店が灯りを点しているのが目に入った。
「まだ開いてるのか…」
終電後に営業している売店など見たことがなかった。確か、この駅の売店は23時で閉まるはずだ。しかし、中を覗くと、カウンターの向こうに店員らしき女性の姿があった。
彼女は黒髪をお団子に結い、白いブラウスに紺色のベストという、よくある制服を着ていた。表情は見えなかったが、棚の整理をしているようだった。
空腹感が勝った。私は売店に足を踏み入れ、陳列棚を眺めた。おにぎりやサンドイッチなどの軽食はまだ残っていた。特に目立つのは三角形のパッケージに包まれたおにぎりの列だ。私は梅干し入りのおにぎりを手に取り、レジに向かった。
「これください」
レジカウンターに立っていた女性店員は、私が声をかけると、ゆっくりと顔を上げた。二十代後半か三十代前半だろうか、化粧気のない顔はどこか青白く、目の下には疲れたような隈があった。しかし、彼女の目は異様に明るく、私をじっと見つめていた。
「いらっしゃいませ」
その声は少し掠れていて、不自然に間延びしていた。
私はおにぎりをカウンターに置き、財布から500円玉を取り出した。女性は無言でおにぎりをスキャンし、レジを打った。
「238円になります」
お釣りを受け取り、ビニール袋に入れられたおにぎりを手に持つと、何故だか早く立ち去りたいという衝動に駆られた。女性の視線が背中に刺さるような感覚。
「ありがとうございます。またのご利用を…」
振り返ると、女性は微笑んでいた。だが、その笑顔はどこか不自然で、見ていると居心地が悪くなる類のものだった。
外に出ると、夜気が肌を撫でて少し冷静になれた。
「変な店員だな…」
私は袋の中身を確認すると、確かにおにぎりが入っていた。しかし、パッケージをよく見ると、何かがおかしい。このおにぎりは梅干しではなく、ツナマヨネーズだった。確かに私が手に取ったのは梅干しのはずなのに…。
気のせいか、袋の感触もいつもと違う。何か硬いものが入っているようだった。しかし、疲労がピークに達していた私は、「明日の朝食にしよう」と思い、そのまま家路を急いだ。
マンションに着くと、すぐにシャワーを浴び、パジャマに着替えた。キッチンに立ち寄り、冷蔵庫におにぎりを入れようとした時、再び違和感を覚えた。袋の中で、おにぎりとは別の硬いものがごそごそと音を立てた。
好奇心に負け、袋の中身を全て取り出してみる。おにぎりの横には、小さな紙切れのようなものが一枚入っていた。それを手に取り、眺めてみると──社員証だった。
「えっ…?」
それは明らかに企業の社員証で、顔写真と名前が記載されていた。驚いたことに、その顔は見覚えがあった。一週間ほど前、電車内で目が合った女性だ。名札には「田中美佳 – 渋谷システム開発部」と記されていた。
「なぜこんなものが…?」
混乱する私の目に、社員証の裏面が目に入った。そこには手書きで電話番号が書かれていた。さらによく見ると、その下に小さな文字で「助けて」と書かれていた。
戸惑いながらもスマホを手に取り、その番号に電話してみることにした。呼び出し音が鳴ること数回、突然電話に出る者がいた。
「もしもし…?」
対応したのは男性の声だった。警察の声だと名乗る。
「あの、田中美佳さんの社員証を持っているのですが…」
「田中美佳さんですか?」警察官は一瞬沈黙した後、「あなたはどちらで社員証を見つけましたか?」と尋ねてきた。
「駅の売店でおにぎりを買ったら、袋の中に入っていたんです」
再び沈黙。そして警察官は重々しい声で言った。
「田中美佳さんは先週の月曜日から行方不明になっています。最後に目撃されたのは、あなたが今おにぎりを買ったという駅です」
血の気が引いた。
「それと…その駅の売店は先月末に閉店しているはずですが…」
言葉を失う私。頭の中が真っ白になった。
「あなたのお名前と住所を教えていただけますか?今すぐ警官を向かわせます」
私は機械的に自分の情報を伝えた。電話を切ると同時に、冷蔵庫に入れたおにぎりが気になり、取り出してパッケージを開けてみた。
中には白いご飯ではなく、何かの紙切れが詰まっていた。恐る恐る広げてみると、それは領収書だった。日付は先週の月曜日。購入したのはツナマヨネーズのおにぎり。金額は238円。
そして購入者の欄には、私の名前「佐藤雄一」と印刷されていた。
私の記憶にはない購入履歴。
財布を確認すると、確かに先週の月曜日、238円分の出費があった。しかし、その日の記憶を辿ろうとしても、仕事帰りの帰宅途中の記憶が曖昧で、何も思い出せない。
玄関のチャイムが鳴った。警察が到着したのだろう。ドアを開けようとした瞬間、スマホに知らない番号から着信があった。恐る恐る電話に出ると、女性の掠れた声が聞こえた。
「佐藤さん、おにぎりはお口に合いましたか?…またのご利用をお待ちしております…」
切れた通話。ドアを開けると、二人の警察官が立っていた。彼らの表情は暗く、一人が私に問いかけた。
「佐藤雄一さんですね。実は先週から、この駅を利用していた方々が次々と行方不明になっているんです。今日は終電に乗っていたのはあなたを含めて三人。残り二人はすでに…」
言葉を飲み込む警察官。私の手には、まだおにぎりのパッケージと田中美佳さんの社員証が握られていた。
そして、ポケットの中でスマホが震えた。着信ではなく、アプリの通知だった。クレジットカードの利用通知。
「本日0時25分、238円のご利用がありました。場所:〇〇駅売店」
しかし、私が買ったのは0時23分だったはずだ。
二分の空白。思い出せない二分間。
その瞬間、私の中に恐ろしい確信が生まれた。私は何かを見てしまったのではないか。見てはいけないものを。そして、次はきっと私の番なのだと。
終電後の駅。誰もいないはずの売店。そして、白い制服を着た女性店員。
彼女は今も、駅で誰かの帰りを待っているのだろう。