MENU

お客さん、もう降りてますよ?

タクシーと踏切

深夜の東京。雨が降り始めていた。

俺は12時間目の運転の最中だった。このご時世、タクシー業界も厳しい。ダブルシフトを引き受け、明け方まで走るのは珍しくない。今夜も例外じゃなかった。

「あと一本だけ拾って帰ろう」

時計は午前2時15分を指していた。繁華街から少し外れた道を走っていると、一人の女性が手を上げているのが見えた。

「銀座まで、お願いします」

黒いコートに身を包んだ彼女は、しとしとと降る雨に少し濡れていた。30代半ばだろうか。華やかさよりも落ち着きを感じさせる女性だった。彼女は後部座席に滑り込むと、そのまま窓の外を見つめ始めた。

「銀座のどちらまででしょうか?」

「中央通りで結構です」

それだけ言うと、彼女は再び黙り込んだ。夜間料金に文句を言われるよりはマシだ。俺は黙って運転に集中した。

雨は次第に強くなり、ワイパーの音が車内に響いていた。

「あの…少し遠回りになりますが、先に川沿いの道を通ってもらえますか?」

彼女が突然口を開いた。遠回りになるなら構わない。むしろ料金は上がる。俺は「かしこまりました」と答え、指示通りにハンドルを切った。

川沿いの道は街灯が少なく、雨に煙る夜景だけが車を照らしていた。車内は妙に静かだった。たまに後部座席から荷物が動く音がするだけ。俺はルームミラーで彼女の様子を窺ったが、彼女は終始窓の外を見ていた。その表情は暗くて見えなかった。

「あの場所の近くをもう一度通りたくて」

彼女は突然言った。俺が何も聞いていないのに。

「どちらの場所ですか?」と尋ねると、彼女は「もうすぐです」と答えるだけだった。

それから15分ほど走っただろうか。住宅街に差し掛かる手前、一つの踏切が見えてきた。その時、踏切の警報音が鋭く響き始めた。

「ここで一度停まっていただけますか?」

彼女の声には妙な緊張感があった。俺は言われるがまま、踏切の手前で車を止めた。警報音が大きくなり、遮断機が下りてくる。赤い警告灯が雨に滲んで、不吉な光を投げかけていた。

彼女が前のめりになり、窓を見つめている。

「あの人、渡っちゃったんです…」

彼女はそう言って、踏切の向こうを指差した。俺も目を凝らしたが、そこに人影は見えなかった。ただ雨に煙る線路と、それを照らす列車のヘッドライトだけが見えた。

「お客さん、誰もいませんよ」

俺がそう言った時、轟音とともに列車が通過した。一瞬、世界が光と音で満たされ、それから再び静寂が戻ってきた。遮断機が上がり始める。

「あの時、私、渡ろうとしたんです」

彼女の声が変わった。うわずって、震えていた。

「でも、最後の瞬間に思いとどまった。だから…」

俺は不安になり、ルームミラーを覗き込んだ。

そこに彼女の姿はなかった。

後部座席には誰もいなかった。

冷や汗が背中を流れ落ちる。頭がクラクラした。「幻覚か?」そう思いたかったが、メーターは確かに走行距離を記録していた。そして助手席の上には、黒い女性用の手袋が一つ置かれていた。俺が乗せた覚えのないもの。

俺は慌てて車を発進させた。とにかくこの場所から離れたかった。

数キロ走ったところで、助手席のナビ画面が突然消え、真っ黒になった。そこに白い文字が浮かび上がる。

『お客さん、もう降りてますよ?』

俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、あの女性が後部座席に座っていた。ずぶ濡れで、顔は青白く、目は虚ろだった。

「一年前の今日、あなたのタクシーに乗ったんです」

彼女はそう言った。

「酔っていて、寝てしまって…気づいたら終点で…あなたは『もう降りてますよ』って言って…」

俺の記憶が一気に蘇った。一年前のこの日、最終電車を逃した女性を乗せた。彼女は途中で眠ってしまい、俺は彼女を起こさず、終点まで走らせた。深夜割増の料金を稼ぐためだ。そして終点で「もう降りてますよ」と彼女を叩き起こした。

彼女は慌てて降り、雨の中を走り去った。その先に踏切があったことも思い出した。

「あの時、目が覚めて慌てて…踏切を渡ろうとしたんです。でも…」

彼女の言葉が途切れた。代わりに、踏切の警報音が車内に響き始めた。ナビ画面には『一年前、あなたの車から降りた女性は、踏切事故で命を落としました』と表示されている。

俺の喉から悲鳴が出そうになった時、彼女は微笑んだ。その顔が徐々に崩れていく。そして彼女の声が聞こえた。

「今日は…私の命日。もう一度、あなたのタクシーに乗りたかったんです」

ルームミラーを見ると、後部座席には誰もいなかった。けれど、そこからは水が滴り落ち、シートを濡らしていた。

そして気づいた。メーターが動いていない。いつの間にか俺のタクシーは、あの踏切の前に戻っていた。

警報音が鳴り始め、遮断機が下りてくる。

「お客さん、もう降りてますよ?」

後部座席から、今度は俺自身の声が聞こえた。