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月曜日の家族

マンション

引っ越しから一週間が経った。

新しい生活を始めるために選んだのは、駅から徒歩15分ほどの静かな住宅街にある古いアパートだった。築年数は経っているが、内装はリフォーム済み。なによりも家賃が安く、一人暮らしにはぴったりだった。

「佐藤さん、こちらが鍵になります。二階の203号室ですね」 管理人の老婆は親切に案内してくれた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」 私は頭を下げた。

「あ、そうそう。隣の204号室には長谷川さん家族が住んでいますが、月曜日以外はほとんど不在なので、静かですよ」

特に気にも留めなかった言葉だった。


最初の日曜日、私は部屋の整理に追われていた。段ボールを開けて中身を取り出し、少しずつ生活空間を整えていく。夕方になると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。

ドアの開く音。 複数の人の話し声。 子供の笑い声。

長谷川さん家族が帰ってきたようだ。管理人の言葉を思い出す。「月曜日以外はほとんど不在」とのことだったが、明日が月曜日だから、今日帰ってきたのだろう。

夜になると、隣からテレビの音や食器の音が聞こえてきた。普通の家族の団欒だ。アパートの壁は薄く、生活音は筒抜けだった。それでも、家族の暖かさを感じるような穏やかな音に、私は少し安心した。

就寝前、隣の部屋からは子供のはしゃぐ声と、それをなだめる母親らしき声が聞こえた。長谷川家には子供が二人いるようだった。


月曜日の朝、私は早起きして出勤の準備をしていた。隣の部屋からも活気のある音が聞こえてくる。朝食の準備をする音、子供たちを急かす父親の声、支度を急ぐ足音。

「いってらっしゃーい」 「いってきます!」

元気な掛け声と共にドアが閉まる音がした。静けさが戻ってきた。

仕事から帰ってきたのは夜の7時過ぎ。隣の部屋からは相変わらず家族の生活音が聞こえていた。

夕食を終えてくつろいでいると、急に隣の部屋が静かになった。時計を見ると8時半を少し過ぎたところだった。そして、数分後——

かすかに、泣き声が聞こえてきた。

子供の泣き声に聞こえたが、それは普通の泣き方ではなかった。低く抑えられた、まるで恐怖に震えているような声だった。

「だいじょうぶ?」 父親らしき声が聞こえる。 続いて母親らしき人の声。「始めましょう」

その後、不規則なリズムを刻む音が聞こえてきた。カツン、カツン、カツン。 まるで何かを叩いているような音。そして、低い声でのつぶやき。複数の人間が何かを唱えているようだった。

私は耳を澄ましたが、内容までは聞き取れない。しばらくすると、また子供の泣き声。今度は二人分だった。

その異様な音は約30分続き、9時頃に唐突に終わった。

「気のせいだったのかな」 結局、私はその夜、少し不安を感じながらも眠りについた。


翌日の火曜日、朝起きると隣の部屋からは何の音もしない。出勤前に廊下ですれ違った管理人に聞いてみた。

「長谷川さん家族は昨日帰られたんですね」 「ええ、月曜日だけですから。昨日の夜には出ていきましたよ」 「夜ですか?」 「ええ。毎週月曜の夜9時過ぎには出ていかれます」

それは奇妙だった。月曜の朝に出勤し、夜に帰ってきて、また夜のうちに出ていく。一週間のうち、家にいるのはたった一日だけ。それも月曜日だけという不思議な生活リズム。

「何か特別な事情でもあるんですか?」 「さあ…詳しくは聞いていませんが、お仕事の関係でしょう。でも良い方たちですよ」

管理人はそれ以上何も言わなかった。


次の月曜日。 今度は意識して隣の部屋の様子を窺っていた。 朝、家族が帰ってくる音。 日中はほぼ誰もいない様子。 夕方から再び活気づく部屋。 そして夜8時半——

また始まった。 低い泣き声。 何かを叩く不規則な音。 複数の人間による謎の呪文のような囁き声。

今回は勇気を出して、壁に耳をつけてみた。

「…来週も…必ず…」 「…約束だから…」 「…許してくれる…」

断片的な言葉だけが聞こえる。 そして、「ごめんなさい」という言葉が何度も繰り返された。

時計の針が9時を指すと、突然静寂が訪れた。 廊下に出て様子をうかがうと、長谷川家の玄関ドアが開き、家族4人が出てきた。両親と小学生くらいの子供2人。全員が無表情で、私に気づくと慌てて笑顔を作った。

「こんばんは、203号室の佐藤です」 私が挨拶すると、長谷川さんは優しい顔で応えた。 「こんばんは。引っ越してきたばかりですか?快適に過ごせていますか?」 「はい、とても」

彼らの様子は普通だった。疲れているようにも見えたが、特に変わった点はない。ただ、子供たちの目が少し赤く腫れているように見えた。

「では、また来週」 彼らは階段を降りていった。


翌週も、そしてその次の週も同じことが繰り返された。 月曜の朝に帰宅し、夜8時半から奇妙な儀式のような音、9時過ぎに出ていく。

私は少しずつ不安になってきた。 特に、壁越しに聞こえる子供たちの泣き声が気になる。虐待でもあるのだろうか。しかし、会うたびに彼らは普通の仲の良い家族に見えた。

ある日、勇気を出して管理人に尋ねてみた。 「長谷川さん家族のこと、もう少し教えてもらえませんか?」

管理人は少し困ったような表情をした。 「あの、佐藤さん…あまり詮索しない方がいいですよ」 「でも、子供たちが泣いている声が聞こえるんです。何か問題があるのでは…」 「…」 管理人は深いため息をついた。 「長谷川家は…5年前からここに住んでいます。最初は普通の家族でした。でも3年前に…」

管理人の話によると、3年前の月曜日、長谷川家の子供たちは学校から帰る途中で交通事故に遭ったという。両親が仕事で不在の間の出来事だった。

「でも、子供たちは元気そうですよ?」 私は混乱した。

管理人は首を横に振った。 「子供たちは…その事故で亡くなりました」

血の気が引いた。

「では、私が見た子供たちは…?」 「毎週月曜日だけ、家族全員がここに戻ってくるんです。事故があった月曜日に…」

私は speechless だった。

「他の住人たちも知っています。でも、長谷川さん夫妻が可哀想で、誰も何も言わないんです。彼らだって、自分たちが…状況を理解していないわけじゃないと思います」

その夜、私は眠れなかった。 隣の部屋には誰もいないはずなのに、かすかに子供の笑い声が聞こえるような気がした。


次の月曜日。 朝、隣の部屋から家族が帰ってくる音がした。 昼間は静かだった。 夕方、また賑やかになる。 そして夜8時半——

今回は、意を決して隣の部屋をノックした。

ドアが開き、長谷川さんが出てきた。 「あ、佐藤さん。どうしました?」

「すみません、突然ですが…お子さんたちは大丈夫ですか?泣き声が聞こえたもので…」

長谷川さんの表情が一瞬凍りついた。 「…大丈夫です。ちょっとしつけの問題で」

その時、部屋の奥から子供の声が聞こえた。 「パパ、もう時間だよ」

長谷川さんは私に謝るように言った。 「すみません、家族の時間なので…」

ドアが閉まった。 その後、いつもの儀式が始まった。 今回は更に明確に言葉が聞こえた。

「今週も会えて嬉しかったよ」 「来週も必ず帰ってくるからね」 「約束だよ」 「ごめんなさい…あの日、仕事で家にいなくて…」

9時、すべての音が止んだ。 ドアが開く音。 そして階段を降りていく足音。

私は窓から外を見た。 アパートから出てきた長谷川夫妻の姿。 二人だけだった。

次の日、管理人に会った時、勇気を出して聞いた。 「長谷川家の子供たちは、自分たちが…死んでいることを知っているんでしょうか?」

管理人は悲しそうに首を横に振った。 「わからないわ。でも、あの子たちにとっても、両親にとっても、月曜日だけは家族で過ごせる大切な時間なんでしょう。だから私たちは…見て見ぬふりをしているの」


それから数ヶ月が経った。 私はこのアパートの奇妙なリズムに慣れてきた。

月曜日の朝、隣の部屋から家族の賑やかな声が聞こえてくる。 夜には奇妙な儀式の音。 そして9時に訪れる静寂。

ある月曜日の夜、いつものように8時半を過ぎた頃、隣の部屋から儀式の音が聞こえてきた。 いつもと違って、今日は子供たちの泣き声がない。代わりに、穏やかな話し声。笑い声さえ聞こえる。

9時、静寂が訪れた。 階段を降りていく足音。 今回は4人分だった。

次の日、管理人から聞いた話によると、長谷川夫妻は交通事故で亡くなったという。 前日の月曜日、彼らが子供たちのもとへ帰る途中での出来事だった。

「でも不思議ね」 管理人は言った。 「今朝、204号室から家族の笑い声が聞こえたわ。4人分の」

それからも、毎週月曜日だけ、隣の部屋からは家族の団欒の音が聞こえる。 泣き声はもう聞こえない。 代わりに、4人の幸せな笑い声。

私は窓から見える月を見上げながら、隣室の家族にそっと祈りを捧げた。 少なくとも月曜日だけは、彼らは一緒にいられるのだから。