テレビのリモコンがない。
会社から帰宅して、いつもの習慣通りにソファに腰を下ろし、テレビをつけようとした瞬間、違和感に気づいた。サイドテーブルにあるはずのリモコンがそこにないのだ。
「あれ?」
疲れた頭で考える。今朝、ニュースを見ながら朝食を取ったはずだ。その後、テレビを消して出勤した。いつものように、リモコンはテーブルに戻したはずだ。
私は立ち上がり、まずはソファの隙間を探した。よくリモコンがクッションの間に挟まることがある。しかし、今日はそこにもなかった。
「どこに置いたんだっけ…」
キッチンを見るが、そこにもない。洗面所、トイレ、玄関と家中を歩き回った。小さな一人暮らしのアパートだから、探す場所はそう多くない。それでも見つからない。
時計を見ると午後10時を回っていた。疲れていたので、今日はテレビを諦めて早めに寝ることにした。明日になれば見つかるだろう。
ベッドに横になり、スマホをいじっていると、リビングから変な音が聞こえてきた。
テレビの音だった。
「え?」
私は慌ててリビングに戻った。確かにテレビがついている。画面にはバラエティ番組が映っていた。
「どういうこと…?」
近づくと、音量が下がった。そして、チャンネルが切り替わる。ニュース番組に変わった。
部屋には私しかいない。
冷や汗が背筋を伝う。まさか誰かが家に入ってきているのか?急いで家中を見回したが、不審な様子はなかった。ドアも窓も施錠されていた。
しかし、テレビのチャンネルはまた変わった。
私はテレビ本体の電源ボタンを押して強制的に消した。そして寝室に逃げ込み、ドアを閉めた。その夜は怖くて眠れなかった。
翌朝、勇気を出してリビングに向かうと、テレビは消えたままだった。落ち着いた頭で考えると、単なる誤作動か、または何かのサインと連動して反応したのかもしれない。引っ越して半年ほど経つが、このアパートには時々電気の調子が悪くなることがあった。
出勤前に念のため、小型の防犯カメラをリビングに設置した。スマホと連動するタイプで、動きを検知すると自動で録画が始まる。これで何かあれば証拠が残るだろう。
その日は職場で、同僚に昨夜の出来事を話した。
「それって、前の住人が残したテレビじゃない?古いモデルだと、電波の干渉とかで勝手に動くことあるよ」
そう言われて少し安心した。確かに、このアパートの家具や電化製品はほとんど前の住人のものだった。家賃が安かったので、そのまま使うことにしていたのだ。
帰宅すると、まず防犯カメラをチェックした。特に変わった様子はなく、安堵のため息をついた。きっと単なる誤作動だったのだろう。
その夜も、リモコンは見つからなかった。テレビ本体のボタンで電源を入れ、チャンネルを合わせた。特に問題なく視聴できたので、リモコンのことはもう気にしないことにした。新しいものを買えばいい。
午前0時を過ぎ、寝室に入る前にテレビを消した。そして防犯カメラが作動していることを確認してから就寝した。
「ピピピピ」
スマホの通知音で目が覚めた。午前3時12分。防犯カメラからの通知だった。
震える手でスマホを開くと、リビングの映像が表示された。薄暗い部屋の中で、テレビがついている。チャンネルが次々と切り替わっていく。
しかし、部屋には誰もいない。
映像の隅に目をやると、テレビの前の空間に何か…動くものがあった。うっすらと、人の手の形をした影のようなものが宙に浮かんでいる。それがリモコンを持っているように見える。しかし、リモコン自体は見えない。透明な何かに握られているようだ。
恐怖で体が硬直した。頭の中で必死に理由を探す。カメラの不具合?光の反射?いや、あれは明らかに手の形をしている。
映像の中で、テレビのチャンネルが止まった。深夜アニメの再放送だ。音量が上がり、その後またチャンネルが変わる。まるで誰かがチャンネルサーフィンをしているようだ。
突然、その手のような影が止まった。そして、ゆっくりとカメラの方向に向きを変えた。まるでこちらを見ているかのように。
スマホを落としそうになった。
次の瞬間、テレビが消え、手の影も消えた。部屋は静寂に包まれた。
私は寝室のドアに鍵をかけ、朝まで布団から出なかった。
翌朝、恐る恐るリビングに向かった。テレビは消えたままだった。防犯カメラも無事だった。
出勤する勇気はなく、会社に休みの連絡を入れた。そして、防犯カメラの映像を何度も見直した。確かに手の形をした影があり、それがリモコンらしきものを操作している。しかし、よく見ると、その手は人間のものとは少し違う。指が長すぎるのだ。
私は不動産屋に電話をかけた。
「すみません、このアパートの前の住人について教えていただけませんか?」
不動産屋の返答は意外なものだった。
「そのお部屋ですか?前の住人は確か…事故で亡くなられたんですよ。一人暮らしの高齢の方で、テレビを見ながら心臓発作で…発見が遅れたらしくて。遺品整理の後、そのまま家具付きで貸し出すことになったんです」
電話を切った後、私はソファに座り込んだ。そういえば、引っ越してきた時から、このソファには薄いシミがあった。当時は気にしなかったが…
考えを振り払うように立ち上がり、テレビ台の下を見た。そこに目が留まったのは、薄い埃の層に残された指の跡だった。細長い、人間離れした指の形。テレビ台の奥から何かが引き出されたような跡。
恐る恐る手を伸ばし、テレビ台の奥を探ると、固いプラスチックの感触があった。
引き出したのは、薄いホコリをかぶったテレビのリモコンだった。
その日の夜、私はホテルに宿泊した。翌日から新しい住まいを探すつもりだ。しかし、あの夜のことを思い出すたびに、あの長く細い指が私のリモコンを操作していた映像が頭から離れない。
そして今でも時々、スマホに防犯カメラからの通知が来る。見る勇気はないが、あの存在が私を探していることだけは確かだ。
いつか、あの長い指が私のドアをノックする日が来るのだろうか。