私が勤める「三條システム開発」のオフィスビルは、築30年を超える古い建物だった。会社自体は10年前にこのフロアに引っ越してきたが、前の会社が残していった家具をそのまま使っている部分も多い。特に3階奥にある小さな休憩室には、妙に場違いな一脚の椅子があった。
それは暗褐色の革張りで、他の事務用椅子と比べると明らかに古く、座面はへこみ、皮は所々ひび割れていた。けれど不思議なことに、その椅子だけは誰も処分しようとしなかった。「座り心地がいい」と言う先輩もいれば、「昼寝するにはちょうどいい角度」と言う同僚もいた。
私は入社して3ヶ月目まで、その椅子に座ったことがなかった。理由は単純で、いつも誰かが座っていたからだ。特に昼休みには、先輩の村田さんがよくその椅子で仮眠をとっていた。
「松本くん、この椅子、一度座ってみろよ。不思議と眠気が来るんだよ」
ある日、村田さんがそう言った。彼は普段から疲れ顔だったが、最近はとりわけ目の下のクマが目立っていた。
「いつも村田さんが使ってますから…」
「いや、今日は遠慮しておくよ。昨日、ちょっと変な夢を見てさ」
彼はそう言って休憩室を出て行った。言われるがままに、私はその椅子に座ってみた。確かに座り心地はよかった。背中にフィットする曲線と、程よい柔らかさ。無意識のうちに目を閉じていた。
目を開けると、そこは真っ暗な部屋だった。
「ここは…?」
声を出しても、音が妙に吸い込まれていくような感覚がある。手探りで歩き出すと、冷たい壁に触れた。壁をたどりながら歩くと、どうやらこの部屋は四角い形をしているようだ。しかし、ドアらしきものは見当たらない。
突然、足元から何かが這い上がってくる感触があった。振り払おうとしても、まるで粘液のようにまとわりついてくる。それが徐々に膝、腰、胸と上がってきて、やがて首に達した時、息ができなくなった。
「ハッ!」
目が覚めると、休憩室だった。椅子に座ったまま、15分ほど眠っていたらしい。妙な夢を見たな、と思いながら席に戻ると、村田さんが奇妙な視線を送ってきた。
「どうだった?椅子」
「ええ、確かに座り心地はいいですけど…変な夢を見ました」
「そうか…俺もなんだ」
それ以上は何も言わなかったが、彼の表情には何か言いたげなものがあった。
翌日から、私はなぜか疲れがとれない日々が続いた。夜はぐっすり眠ったはずなのに、朝起きると体が重い。そして昼休みになると、妙にあの椅子が気になって仕方がなかった。
「ちょっと、休憩室の椅子で休むか…」
そう思った私は、再びその椅子に座った。今度は意識的に目を閉じる。すると、またあの暗い部屋だ。でも今回は、少し様子が違う。
部屋の中央に、ぼんやりと人影が見える。近づいてみると、それは村田さんだった。彼は椅子に座り、何かを見つめている。
「村田さん?」
声をかけても反応がない。その視線の先を辿ると、そこには同じ椅子がもう一脚あった。空の椅子。村田さんはその椅子を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振っている。何かを拒絶するような仕草だ。
「座るな…」
かすかに聞こえた彼の声。次の瞬間、目が覚めた。
休憩室には誰もいなかった。時計を見ると、20分も経っていた。慌てて席に戻ると、課長が不機嫌そうな顔をしていた。
「松本、村田の様子を見てきてくれ。今日も休憩室で寝てるはずだ」
「え?でも、休憩室には誰も…」
「さっきまでいたはずだが」
不審に思いながら再び休憩室に向かうと、確かに村田さんがあの椅子に座っていた。さっきまで確かにここには誰もいなかったのに…。
「村田さん、課長が…」
声をかけながら肩に手を置くと、彼はゆっくりと横に倒れた。顔色が悪い。呼吸も弱々しい。
「村田さん!大丈夫ですか!」
救急車を呼び、村田さんは病院に運ばれた。診断は急性の脳疲労と軽い脱水症状。医者は「過労でしょう」と言ったが、私にはどうしても納得できなかった。
翌日、会社では村田さんのことが話題になっていた。
「あの椅子で寝た後、おかしくなったらしいな」
「前にも似たようなことがあったよな、佐藤さんが…」
断片的な会話を聞きながら、私は気づいた。この会社に入って以来、体調不良で休職したり、突然退職した人が何人かいる。そして彼らに共通するのは、あの椅子で頻繁に仮眠をとっていたということだった。
社内の資料を調べてみると、このビルに入る前の会社でも、不可解な事故や体調不良が相次いでいたらしい。そして、このフロアを引き継いだとき、処分されず残されたものの一つが、あの椅子だった。
一週間後、村田さんは退院した。しかし、彼はすっかり別人のようになっていた。無口になり、目は虚ろで、時折虚空を見つめては何かをつぶやいている。そして何より、休憩室には絶対に近づこうとしなかった。
「あの椅子には…もう誰も座らせるな」
彼がはっきりと言ったのはそれだけだった。
その日の夜、私は遅くまで残業していた。ふと休憩室を見ると、灯りがついている。ドアを開けてみると、若い女性社員の佐々木さんがあの椅子に座り、眠っていた。
「佐々木さん、もう終業時間ですよ」
彼女は動かない。近づいて肩を揺すると、彼女はゆっくりと目を開けた。しかし、その目に焦点はなかった。
「松本さん…あの椅子に座ったんですね」
彼女の声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
「私も座りました。でも…戻れなくなりそうでした。あの場所から」
「あの場所って…」
「暗い部屋です。たくさんの椅子がある部屋。みんなそこに座って、もう戻れなくなった人たち…」
彼女の言葉に、背筋が凍りついた。
「村田さんは戻れましたけど、でも完全には戻れてない。あの場所に、まだ半分は…」
彼女はそこまで言うと、突然立ち上がって走り出した。追いかけようとした私を振り切り、非常階段へ。
彼女の姿を見つけたのは、ビルの裏手だった。地面に横たわる彼女は、既に息絶えていた。7階から飛び降りたらしい。
警察の調査では、過労によるうつ病の可能性が高いとされた。しかし、私には分かっていた。あの椅子が、彼女を「あの場所」に連れて行ってしまったのだ。
会社は一時騒然となったが、数週間もすれば日常が戻ってきた。ただ、休憩室のあの椅子だけは、誰も座らなくなった。いや、座りたくても座れないのかもしれない。なぜなら、椅子には常に「誰か」が座っているように見えたからだ。
ある日、思い切って椅子を処分しようと休憩室に入ると、村田さんが立っていた。彼は窓の外を見つめながら、ぽつりと言った。
「無駄だよ、松本くん。あれは椅子じゃない。入り口なんだ」
「入り口?」
「あの場所への。一度でも座れば、少しずつ魂を持っていかれる。そして全部持っていかれたら、もう戻れない」
彼はそう言って、椅子に近づいた。
「だから、俺が最後にならなきゃ」
村田さんは椅子に座り、目を閉じた。私は止めようとしたが、体が動かない。彼の顔には、久しぶりに穏やかな表情が浮かんでいた。
そして次の瞬間、信じられない光景を目にした。村田さんの姿が、徐々に透明になっていくのだ。最後には完全に消え、椅子だけが残った。
その日以来、不思議なことに休憩室の椅子に座る人はいなくなった。というより、その椅子が見えなくなったのだ。私にだけは見えるのに、他の社員は「そんな椅子はない」と言う。
今日も私は残業している。ふと休憩室を覗くと、椅子に村田さんが座っていた。いや、村田さんではない。彼の姿をした何かだ。それは私に気づくと、にっこりと笑った。そして隣の空いた椅子を手で示した。
初めて気づいたが、その椅子は私の入社前から使っていた古い事務椅子だった。最初から二脚あったのか、それとも…。
「松本くん、この椅子、一度座ってみろよ。不思議と眠気が来るんだよ」
その声は村田さんのものだったが、何か別のものも混じっていた。多くの声が重なり合ったような、不気味な響き。
私は誘いを断り、会社を辞めることにした。しかし夢の中で、私はいつもあの暗い部屋にいる。そしてそこには無数の椅子が並び、一脚一脚に社員たちが座っている。村田さんも、佐々木さんも。
そして必ず一脚、私のための空席がある。
今日も仕事帰りに新しいオフィスビルの休憩室に入ると、見覚えのある暗褐色の椅子が置かれていた。誰が持ってきたのか、いつの間にか。そして私の体は、自然とその椅子に引き寄せられていく。
もう逃れられない気がする。いつか私も、あの椅子に座ることになるのだろう。そして永遠に、暗い部屋の中で待ち続けるのだ。
次の犠牲者を。