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最終電車の乗客

電車

私が心底恐怖を感じたのは、あの深夜の電車の中だった。

仕事の飲み会が長引き、気づけば終電間際。何とか駅のホームに滑り込んだ私は、滑り込むように最終電車に乗り込んだ。車内は予想通り閑散としていた。サラリーマンが二、三人、酔った様子で座席に座り、スマホを見つめているだけ。私は静かな車内で、ほっと一息ついた。

ところが、車両の一番奥に座る一人の女性が目に入った。長い黒髪が顔を覆い、白いワンピースを着ていた。いかにも日本のホラー映画に出てきそうな出で立ちで、思わず苦笑した。飲み過ぎたせいか、少し神経質になっているようだ。

「次は○○駅、○○駅です」

車内放送が響く。二つ先の駅で降りれば、あとは少し歩いて自宅だ。私はイヤホンを耳に差し、音楽を流し始めた。しかし、何故か落ち着かない。違和感を感じて、再び車内を見回す。

先ほどの女性が、こちらを見ていた。顔の大部分は髪に隠れているが、わずかに見える唇が微かに動いている。何かを呟いているようだが、音楽のせいで聞こえない。というか、聞きたくもなかった。

私は視線を逸らし、スマホの画面を強引に見つめた。ただの酔っぱらいか、精神を患った人だろう。関わらないのが一番だ。

「次は△△駅、△△駅です」

△△駅? その駅名は聞き覚えがない。路線図を確認しようとスマホを操作したが、電波が圏外になっていた。おかしい。この路線はずっと電波が通じるはずなのに。

電車が駅に到着し、ドアが開く。サラリーマンの一人が降りていった。駅名表示を見ると確かに「△△駅」と書かれている。見たことのない駅だ。地図アプリも開けず、焦りが湧き始めた。

「次は◇◇駅、◇◇駅です」

また聞いたことのない駅名。いったい何が起きているのだろう?

そこで気づいた。女性の位置が変わっている。さっきより三席ほど近づいていた。私が見ていない隙に移動したのだろうか。彼女は相変わらず顔を伏せ、何かを呟いている。

冷や汗が背中を伝った。酔いが一気に覚めた気がした。

「すみません」

残っていたサラリーマンに声をかけた。

「この電車、○○駅に止まりますか?」

男性は無表情で私を見た。そして、ゆっくりと首を横に振る。

「この電車は環状線です。同じところをずっと回ります」

そんなはずはない。この路線は環状線ではなく、始発と終点がある普通の路線だ。

「それって、どういう…」

言葉が途切れた。男性の顔が、どこか不自然だった。表情がない。人形のような無機質さ。そして何より、目がないことに気づいた。眼窩がうっすらと陰になっているだけで、眼球がないのだ。

恐怖で身体が硬直した。男性はにやりと笑い、次の駅で降りていった。車内には私と、あの女性だけが残された。

「次は◎◎駅、◎◎駅です」

また知らない駅名。電車は止まり、ドアが開く。しかし、ホームには誰もいない。それどころか、ホームの照明も消えていて、ただ暗闇が広がっているだけだった。

「降りなくていいの?」

低く、かすれた女性の声が聞こえた。私は震える手でイヤホンを外した。

「あなたの駅じゃないの?」

女性が顔を上げる。髪が左右に分かれ、その顔が見えた。目も鼻も口もない、平らな肌だけの顔。そこからなぜか声が出ている。

「どこに行きたいの?」

恐怖で声も出ない。女性は立ち上がり、私の方へゆっくりと歩き始めた。

「この電車は、あなたが望む場所には止まらないわ」

彼女の言葉に、車内放送が重なった。

「次は■■駅、■■駅です。この駅は終点です。お降りの際は、お忘れ物のないようご注意ください」

女性が私の目の前に立った。白いワンピースには血のようなシミがついている。

「あなたが降りるべき駅はもうないの。この電車に乗った時点で、あなたの終着駅は決まっていたの」

ドアが開くと、駅のホームではなく、ただの暗闇が広がっていた。底なしの闇だ。

「さあ、降りて」

女性が私の肩に手をかけた。その冷たい感触に、私は悲鳴を上げようとした。

その瞬間、強い揺れを感じた。

「終点、○○駅です。終点、○○駅です。お忘れ物のないよう、ご注意ください」

目を開けると、電車は私の降りるはずだった駅に到着していた。周りには乗客が何人かいて、みな普通に降りていく。先ほどの女性の姿はない。

悪夢だったのか? 安堵のため息をつきながら、私は急いで電車を降りた。

ホームには数人の乗客がいる。みな、当たり前のように家路を急いでいる。私も安心して駅の出口へ向かった。

しかし、改札を抜けようとしたとき、駅員が私を呼び止めた。

「すみません、その切符は使えませんよ」

不思議に思って切符を見ると、そこには「△△駅」と印字されていた。私が知らない、存在しないはずの駅名だ。

「これは…」

言葉に詰まる私に、駅員は不思議そうな顔をした。

「お客様、どちらからいらしたんですか?」

その問いに答えられなかった。なぜなら、自分がどこから来たのか、突然思い出せなくなったからだ。

駅員の顔をよく見ると、どこか見覚えがある。そう、電車の中で出会った、目のないサラリーマンに似ていた。

そして背後から、女性の低い声が聞こえた。

「お帰りなさい」

振り返ると、あの白いワンピースの女性が立っていた。今度は顔がはっきりと見える。それは私自身の顔だった。

そして気づいた。この駅も、この世界も、もう元には戻れないのだと。

私はいつの間にか、終わりのない駅と電車の世界に閉じ込められていたのだ。そして、次の「乗客」を待つ側になっていた。