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カルテに書かれた「×」

カルテ

夜勤明けの疲れた瞳で、私は新たに渡されたカルテを眺めていた。研修医として赴任して三ヶ月、ようやく病院の空気に慣れてきたところだった。

「佐藤君、今日から担当してもらう患者さんだ」

循環器科の水野部長が差し出したのは、一般的なものとは少し異なるカルテだった。患者名の欄には黒いマジックで大きな「×」が引かれ、その上から白いテープが貼られている。そのテープには「山本」とだけ書かれていた。

「これは…?」

私が尋ねると水野部長は少し表情を強張らせた。

「あぁ、電子カルテの移行時にデータが混乱してね。患者情報が一部失われてしまった。紙カルテも古いものが見つからなくてね。とりあえず”山本”さんということで対応してくれ」

その説明に違和感を覚えながらも、私は素直に頷いた。電子カルテシステムのトラブルは以前も聞いていたし、古い紙カルテの紛失も珍しくないと先輩から聞いていた。

病室を訪れると、「山本さん」は窓際のベッドで静かに横たわっていた。六十代くらいの男性で、痩せこけた顔には生気がなく、天井をぼんやりと見上げていた。

「山本さん、今日から担当させていただく佐藤です。よろしくお願いします」

男性はゆっくりと首を動かし、私を見た。その目は奇妙なほど深く、何かを覗き込むような視線だった。

「よろしく…頼む…」

かすれた声でそう答えると、また天井に目を戻した。カルテによれば、彼は重度の肺炎で入院し、今は小康状態だという。しかし、基礎疾患や既往歴の欄は空白が多く、治療方針が立てにくい状態だった。

その日から私は毎朝「山本さん」の回診を続けた。徐々に会話ができるようになり、彼の様子も良くなっていった。しかし奇妙なことに、彼の回復が進むにつれて、病棟のスタッフたちの様子がおかしくなっていったのだ。

最初に変化に気づいたのは、ベテラン看護師の村井さんだった。いつも几帳面で頼りになる彼女が、ある朝、山本さんの点滴を交換する際、突然震え始めたのだ。

「村井さん、大丈夫ですか?」

「ええ…ただ、急に寒気がして…」

そう言いながらも、彼女の目は恐怖に見開かれていた。その後も、山本さんの病室に入るスタッフたちが次々と不調を訴え始めた。頭痛、めまい、記憶の混乱—症状は人によって異なるが、共通しているのは山本さんと接触した後に始まるということだった。

ある日、廊下で村井さんと偶然出会った私は、彼女の顔色の悪さに驚いた。

「村井さん、本当に大丈夫ですか?休んだ方が…」

彼女は周囲を警戒するように見回すと、小声で言った。

「佐藤先生、あの患者さん…おかしいです。私、昨日の夜勤で見たんです。ベッドの上で…体が、体が伸びて…」

彼女の言葉は途切れ、目に涙が浮かんだ。

「何を言ってるんですか?」

「わからないんです。でも、あの人を見ると、昔…十年前に亡くなった患者さんを思い出すんです。でもそれは…」

その時、ナースステーションから呼び出しの声がかかり、村井さんは言葉を切った。その日以降、彼女は病院に姿を現さなくなった。病欠だという噂だったが、詳細は誰も知らなかった。

不安を感じながらも、私は山本さんの担当を続けた。しかし、ある夜、当直室で眠っていると奇妙な夢を見た。白い廊下を歩く自分。そして突然、目の前に現れる山本さん。だが彼の顔は徐々に変形し、別の顔になっていく。私が以前見たこともない顔だった。そして彼の口から聞こえてくる言葉。

「私を…覚えていないのか…」

汗びっしょりで目を覚ました私は、無意識のうちに山本さんのカルテを手に取っていた。改めて「×」の付いたカルテを見つめると、不思議な衝動に駆られた。テープをめくりたい—その思いが私の中で膨れ上がった。

震える手でテープの端をつまみ、ゆっくりとはがした。すると、その下から浮かび上がったのは「三島洋介」という名前だった。その瞬間、頭に激痛が走った。

「三島…洋介…?」

その名前を口にした途端、記憶の洪水が私を襲った。医学部の実習、循環器科での研修、そして—あの事故。十年前、私がまだ医学生だった頃、見学していた手術中に起きた医療事故。患者は心臓手術中に急変し、命を落とした。その患者の名は三島洋介。

現実と記憶が交錯する中、私は病棟へと足を向けていた。深夜の静寂の中、山本さん—いや、三島さんの病室へ向かう自分がいた。

部屋に入ると、彼はベッドに起き上がり、窓の外を見ていた。

「気づいたようだな、佐藤君」

振り返った彼の顔は、あの日の三島洋介そのものだった。

「どうして…あなたは十年前に…」

「死んだ?そうだ。だが私は消えなかった。あの手術の失敗を誰も認めようとしなかった。カルテは改ざんされ、私の名前は消された」

彼の姿がゆらめき、部屋の温度が急激に下がった。

「私は忘れられたくなかった。責任を取ってほしかっただけだ。だから…この病院に戻ってきた」

「でも、私はただの学生で…何もできませんでした」

「いや、君だけが違う。あの日、君だけが真実を見ていた。だから君に担当してもらったんだ。私の存在を認めてほしかった」

その言葉に、私は当時の記憶を思い出した。確かに私は、主治医が記録を書き換えるのを目撃していた。しかし恐怖と同調圧力で黙っていた自分がいた。

「今からでも遅くない。真実を明らかにしてほしい」

三島さんの姿が透明になっていくのが見えた。

「待ってください!私は…」

彼の姿は完全に消え、部屋には冷たい風だけが残った。

翌朝、勇気を出して水野部長に事実を告げた私は、驚くべき反応を目の当たりにした。部長は顔面蒼白になりながらも、深いため息をついた。

「やはり出たか…三島の件は病院中が封印していた過去だ。だが、彼の魂が成仏できず、時々患者として現れる。君は初めて彼の正体に気づいた医師だ」

その後、病院は十年前の医療事故の再調査を行い、過ちを公式に認めた。三島洋介の家族に謝罪し、賠償も行われた。

あれから一年が経った今、私は時々あのカルテを思い出す。「×」で消された名前。それは単なる記録の消去ではなく、人の存在自体を消そうとする行為だったのだ。

医師として、私は決して忘れまい。一人の患者の命、そして尊厳を守ることの意味を。

そして今でも夜間の病棟を歩いていると、時折廊下の端に三島さんの姿を見る気がする。もはや恐怖ではなく、私に真実を思い出させてくれた感謝の念を抱きながら、私は小さく頭を下げるのだった。