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終バスの案内人

バス

残業で疲れ果てた俺は、駅に向かう終バスの停留所で待っていた。時計は午後11時40分を指している。あと5分で最終便が来るはずだ。冬の夜風が頬を撫で、周囲には人影もまばらだった。

「これを逃したら歩くしかないか…」

溜息をつきながらスマホを見ていると、ヘッドライトが闇を切り裂き、大型バスが停留所に滑り込んできた。ドアが開き、運転手の男性が「どうぞ」と促す。

乗り込むと、バスの中はほとんど空席だった。乗客は5人ほど。みな離れ離れに座り、無言で前を見つめている。スーツ姿の中年男性、制服を着た女子高生、マスクを深くかぶった老婆…。誰もがこの時間帯によくいそうな顔だが、皆どこか表情が硬い。

「三番町経由、最終便です」

運転手のアナウンスが車内に響く。何の変哲もない声だったが、なぜか背筋がぞくりとした。窓の外は暗く、見慣れた町並みが流れていく。しかし何かが違う。街灯の色が少し赤みがかっているような…。気のせいか?

バスは順調に停留所をいくつか過ぎていった。乗客が一人、また一人と降りていく。しかし誰も乗ってこない。やがて俺の他に乗っているのは老婆だけになった。

「次は…特別停留所です」

運転手のアナウンスが少し変わった気がした。地元民の俺は、この路線の全ての停留所を知っているはずだが、「特別停留所」という名前は聞いたことがない。

「すみません、特別停留所って何ですか?」

俺は前方の運転手に声をかけた。返事はない。老婆がくすくすと笑い出す。その笑い声は徐々に大きくなり、最後には咳き込むように止まった。

窓の外を見ると、見たことのない風景が広がっていた。建物はあるが、どれも薄暗く、人の気配がない。街灯は赤く染まり、道路は霧に包まれている。

「あの…この辺りはどこですか?」

パニックになりそうな気持ちを抑えながら、もう一度運転手に声をかけた。

「お客様、間もなく特別停留所です。どうぞご準備ください」

運転手の声が変わっていた。最初は普通の中年男性の声だったはずなのに、今は低く、どこか反響するような声に聞こえる。

恐る恐る運転席の方を見ると、運転手の後頭部が見えた。それは…普通の人間の頭ではなかった。長く黒い髪が垂れ下がり、首の形が異様に細長い。

「降ります!次で降ろしてください!」

俺は慌ててボタンを押した。赤いランプが点灯するが、バスは減速する気配がない。むしろ加速しているように感じる。

老婆がゆっくりと顔を上げた。目が合うと、彼女はにやりと笑った。その顔には目がなかった。ただ黒い空洞があるだけだった。

「若いの、もう遅いよ」

その瞬間、バスが急に揺れた。窓の外は完全な闇に変わっていた。街灯も建物も見えない。ただ真っ暗な空間を走っているようだった。

「特別停留所、到着です」

運転手のアナウンスがスピーカーから流れる。バスが止まり、ドアが開いた。外には何も見えない。ただ濃密な闇があるだけだ。

「お客様、どうぞお降りください」

運転手がゆっくりと振り返った。その顔には、人間の特徴が何一つなかった。ただの平らな肌に、黒い点が二つ。それが目なのか、別の何かなのか分からない。

「私は…ここではありません!」

俺は震える声で言った。老婆が立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「若いの、案内人があなたを選んだのよ。逃げられないわ」

彼女の口から漏れる声は、もはや人間のものではなかった。複数の声が重なり合ったような、不協和音のような響きだった。

運転手―いや、もはや「案内人」と呼ぶべき存在―が立ち上がり、俺の方へ歩いてきた。その体は人間よりも遥かに長く、関節が不自然に曲がっている。

「私たちの世界へ、ようこそ」

案内人の言葉に、バスの中の空気が凍りついた。逃げようにも、外は底なしの闇だ。俺はシートに張り付いたように動けなくなっていた。

そのとき、スマホの着信音が鳴った。画面には「母」の文字。指が震えながらも通話ボタンを押した。

「もしもし?お母さん?」

「あなた、どこにいるの?心配してたのよ」

母の声が聞こえる。それは確かに母の声だった。だが、微妙に響きが違う。何かが混ざっているような…。

「私、待ってるわよ。早く降りてきて」

母の声が変調し、老婆の声と重なり始めた。

その時、俺はハッとした。このバスに乗る前、確かに母からメッセージが来ていた。「今日は遅くなるから、鍵開けておくね」と。

つまり、今電話をかけてきた「母」は…。

「あなた、さっさと降りなさい。案内人が待っているわ」

電話の声と、目の前の老婆の声が完全に一致した。恐怖で全身が凍りつく。

最後の望みにかけて、俺は勢いよく立ち上がり、閉まりかけていたドアに向かって飛び込んだ。案内人の長い腕が俺の足首を掴もうとするが、間一髪で振り切る。

ドアの外は闇。だが、それでも飛び込むしかなかった。

目を閉じて、暗闇の中へ身を投げた瞬間…。

「おい!大丈夫か!?」

目を開けると、見知らた駅前のバス停だった。制服を着た本物のバスの運転手が、心配そうに俺を見下ろしていた。

「気を失ってたぞ。終バスを逃して、ベンチで寝込んでしまったみたいだな」

運転手は苦笑いしながら言った。

「今何時ですか?」震える声で尋ねる。

「朝の5時半だ。始発バスの準備をしていたら、お前さんがいるのを見つけてな」

ほっとして深呼吸をした。夢だったのか…。それとも何かもっと恐ろしいものだったのか。

立ち上がり、礼を言って駅の方へ歩き出した。その時、バス停の掲示板に見慣れない時刻表が貼られているのに気づいた。

『特別運行便 – 23:45発』

その横には小さな注意書き。

『乗車された方は、必ず降車してください。案内人はお待ちしています。』

振り返ると、運転手の姿はもうなかった。ただ遠くで、誰かが低く笑う声だけが聞こえた気がした…。