最初の手紙が届いたのは、母の三回忌の日だった。
信じられないことだった。母の筆跡は間違いようがなく、私の名前「美咲」の「き」の字が少し傾いているのは、いつもの癖だった。宛名書きの角度、封筒の折り目の付け方、そして微かに漂うラベンダーの香り。すべてが母そのものだった。
震える手で封を切ると、中から一枚の便箋が現れた。
「美咲へ。今日は良い天気ね。庭の紫陽花が咲き始めたら、写真を撮っておいてほしいわ。いつも見守っているよ。母より」
涙が頬を伝った。三年前に肺がんで亡くなった母は、生前、庭の紫陽花をこよなく愛していた。今年も紫陽花の季節が近づいていた。どこからともなく届いたこの手紙に、私は不思議よりも懐かしさを感じた。母の言葉は、まるで昨日も一緒に暮らしていたかのように日常的で温かかった。
翌日、私はその手紙を夫の健太に見せた。彼は眉をひそめながらも、「美咲の気持ちの中に母親が生きているということじゃないか」と優しく言った。確かにそうかもしれない。私は手紙を大切に引き出しにしまった。
それから一週間後、二通目の手紙が届いた。今度は父からだった。父は母より先に、五年前に脳梗塞で他界していた。
「美咲、元気にしているか。最近、仕事は忙しいだろう?無理はするな。そういえば、君が子供の頃に作った木製の小箱、覚えているか?また見つけたいと思っているんだ。父より」
私は呆然とした。その小箱は確かに存在した。父が私の十歳の誕生日に作ってくれた宝物入れだ。しかし、引っ越しの際に紛失してしまったと思っていた。
手紙を読み終えた瞬間、リビングの隅に置いた古い時計が突然止まった。カチカチという音が消え、静寂だけが残った。私は不意に寒気を感じた。時計の文字盤に映る影が、人の形に見えた気がした。
三通目は大学時代の親友、由美からだった。由美は卒業後すぐに交通事故で亡くなった。私にとって最も辛い喪失だった。
「美咲ちゃん、久しぶり!あの時のことは気にしないでね。もう全部忘れたよ。でも、たまには思い出してくれるとうれしいな。あの赤いマフラー、まだ持ってる?由美より」
手紙を読んでいると、部屋の隅に赤い影が映った。振り返ってみたが何もない。しかし、確かに何かがあった。そして、「あの時のこと」という言葉が私の心に突き刺さった。由美の事故の日、私たちは些細なことで口論していた。私は彼女を駅まで送らず、彼女は一人で歩いて帰り、そして事故に遭った。
手紙が届くたびに、家の中の様子が少しずつ変わっていった。写真立ての中の写真が少し傾く。鏡に映る自分の背後に黒い影が一瞬だけ映る。夜になると、どこからともなく微かな足音が聞こえる。
四通目の手紙は、亡くなった祖母からだった。
「美咲、元気にしているかい?あの箪笥の引き出し、もう一度よく見てごらん。大切なものがあるはずだよ。いつも見ているからね。おばあちゃんより」
その夜、私は勇気を出して古い箪笥の奥の引き出しを開けた。そこには父が作ってくれた木製の小箱があった。箱には埃がついておらず、まるで昨日置かれたかのように新しかった。恐る恐る蓋を開けると、中には一枚の古い写真があった。それは私が知らない写真だった。幼い私と両親、そして由美と、もう一人の女の子が写っていた。
その女の子の顔は黒く塗りつぶされていた。
写真を見つめていると、背後から冷たい風が吹いた。振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。顔の輪郭がぼやけていて、はっきりとは見えない。しかし、その姿は妙に見覚えがあった。
「思い出した?」少女は囁いた。「私のこと、忘れてしまったの?」
その声を聞いた瞬間、記憶が洪水のように押し寄せてきた。幼い頃、私たちの家の近くに住んでいた少女、咲良。彼女は私の親友だった。しかし、ある夏の日、私たちは川で遊んでいて、彼女は深みにはまってしまった。私は助けを呼びに行くと言って、その場を離れた。けれど、恐怖で足がすくみ、結局誰にも言えなかった。咲良の死は「不慮の事故」として処理された。
私は咲良を見殺しにしたのだ。そして、その記憶を封印していた。
「みんなは許してくれたよ」咲良は言った。「でも、あなたは自分を許していない。だから、私たちはあなたを迎えに来たの」
部屋の四隅から、影が伸びてきた。母、父、由美、祖母、そして咲良。彼らは静かに私を取り囲み、手を差し伸べた。
「さあ、一緒に行こう」咲良は微笑んだ。
その時、玄関のドアが開く音がした。夫の健太が帰ってきたのだ。
「美咲、どこにいるんだ?手紙を持ってきたぞ」
彼の声で影は一斉に消えた。私は急いで箪笥の前から立ち上がり、リビングに向かった。健太は不思議そうな顔で私を見ていた。
「これ、変な手紙が来てたぞ。宛名がお前になっているけど、差出人がない」
彼が手渡した封筒を開けると、そこには一行だけの文字があった。
「あなたの居場所はまだここではない。でも、いつかきっと会いましょう」
窓の外を見ると、庭の紫陽花が満開に咲いていた。そして、花々の間に、五つの影が立っているのが見えた。彼らは静かに手を振り、やがて朝の光の中に溶けていった。
それから手紙は来なくなった。しかし時々、夜の静けさの中で、遠くから聞こえる囁き声に耳を澄ますことがある。そして、私は約束する。いつか彼らに会う日が来たら、すべての真実を受け入れ、自分を許すことを。
それまでは、生きていくしかない。亡き者たちの手紙が教えてくれたように、過去を受け入れながら。