残業が終わったのは午前1時を回っていた。会社の飲み会をすっぽかした代償として、上司が無理難題の仕事を押し付けてきたのだ。タイムカードを押し、オフィスビルを出ると、冷たい風が頬を撫でた。11月も中旬に差し掛かり、東京の夜は冬の気配を帯び始めていた。
「はぁ…」
疲れた体から漏れた溜息が白い煙となって宙に消えていく。電車の終電はとうに過ぎ、タクシーを拾おうとしたが、どれも客を乗せて行ってしまう。財布の中身を確認すると、千円札が数枚。タクシー代を払えば、明日の昼食代がなくなる計算だ。
「歩いて帰るか…」
マンションまでは徒歩40分ほど。普段なら躊躇うが、今夜は星が綺麗に見える。少し気分転換になるかもしれないと思い、歩くことを選んだ。
夜の街を歩くのは久しぶりだった。昼間は人で溢れる商店街も、今は閉まったシャッターと街灯の光だけが残る。自分の足音だけが響く静寂に、少し心細さを感じる。
ショートカットするため、普段はあまり通らない住宅街に入った。両側にはよく似た一軒家が立ち並ぶ。どの家も電気は消えている。時計を見ると、午前2時を回っていた。
そして、住宅街を抜けると、目の前に小さな公園が現れた。日中は子どもたちの声で賑わうこの公園も、今は誰もいない。ブランコが風に揺られ、かすかに軋む音を立てている。
「こんな時間に公園か…」
不思議と足が止まった。公園を横切れば、自宅までの距離が短くなる。しかし、公園の入り口に立つと、何か言い知れない違和感を覚えた。月明かりに照らされた公園は、日中とは全く異なる顔を見せていた。
足を踏み入れると、砂利を踏む音が静寂を破る。遊具が黒い影となって立ち並び、まるで私を見つめているかのようだ。そして、公園の中央に設置された砂場が目に入った。
月明かりに照らされた砂場には、無数の小さな足跡が刻まれていた。
「子どもたちの足跡か…」
しかし、すぐにその考えは打ち消された。足跡は規則正しく並び、まるで何かの模様を描いているようだった。子どもが無造作に残すものとは思えない。そして、その数があまりにも多い。
好奇心に駆られ、砂場に近づいた。足跡は確かに子どものもののようだが、不自然なほど小さく、そして浅い。まるで体重のない何かが残したように見える。
そして気づいた。足跡は砂場の中央から放射状に広がっている。まるで、砂場の中心に何かがいて、そこから四方八方に広がったかのように。
冷や汗が背筋を伝った。
「何だこれ…」
思わず呟いた瞬間、風が止んだ。公園全体が奇妙な静けさに包まれた。ブランコの軋む音も消え、木々の葉擦れの音もない。まるで時間が止まったかのようだった。
そして、砂場から微かな音が聞こえた。
サラサラ…
砂の動く音だった。目を凝らすと、足跡の一つ一つが、ゆっくりと消えていくのが見えた。何かが砂の下に潜り込んでいるようだ。
恐怖で体が硬直する。逃げなければと思ったが、足が動かない。
その時だった。
「あそぼ…」
かすかな声が聞こえた。子どものような、しかし子どもとは思えない不気味な声だった。
そして、足首に冷たいものが触れた。
「うわっ!」
飛び上がるように後ずさると、足首に砂の付いた小さな手形がくっきりと残っていた。しかし、周りには誰もいない。
恐怖で全身が震えた。そして、砂場を見ると、足跡が再び現れ始めた。今度は私がいる方向へと向かってくる。
「や、やめろ!」
叫びながら、私は全力で公園から逃げ出した。振り返ることなく、ただひたすら走った。マンションの自室に辿り着くと、ドアを閉め、鍵をかけ、ベッドに倒れ込んだ。
「なんだったんだ…あれは…」
震える手で足首を見ると、砂の手形はまだ残っていた。触れた感触が生々しく蘇る。冷たく、しかし確かな重みがあった。
朝になり、恐る恐る公園へ行ってみると、砂場は普通の状態だった。子どもたちが遊んだ跡はあるが、昨夜見たような不気味な足跡はない。
「やはり疲れていたのか…」
そう自分に言い聞かせ、会社へ向かった。
その夜も残業となり、同じ道を歩いて帰ることになった。公園の前を通りかかると、昨夜の恐怖がよみがえる。今夜は遠回りしようと思った矢先、公園から子どもの笑い声が聞こえた。
「こんな時間に…?」
時計は午前2時を指している。不審に思い、公園を覗くと、砂場の周りに小さな子どもたちが集まっていた。月明かりでは顔がよく見えない。
「危ないよ、こんな時間に…」
声をかけようとした瞬間、子どもたちが一斉にこちらを向いた。しかし、彼らには顔がなかった。ただ砂でできた人の形をした何かが、こちらへと近づいてくる。
「あそぼうよ…いっしょに…」
複数の声が重なり合い、砂の子どもたちが私を取り囲み始めた。逃げようとするが、足が砂に埋まっていく。引っ張っても抜けない。
「やめろ!離せ!」
必死にもがいたが、体はどんどん砂に飲み込まれていく。最後に見たのは、砂場から現れた無数の小さな手が、私の体を引きずり込む光景だった。
翌日、公園の砂場には一人分の大きな足跡と、そこから放射状に広がる無数の小さな足跡があった。そして中央には、砂で作られた人形が座っていた。表情はないが、何かを待っているようだった。
夜になると、その人形は動き出し、公園の入り口で立ち尽くす。そして、遅い時間に一人で歩く人を見つけると、砂でできた小さな声で囁くのだ。
「あそぼ…」