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排水口の髪

お風呂

田中美咲は、実家を出てから三年目のワンルームマンションで一人暮らしをしていた。築十五年の古いマンションだが、家賃が安く、職場からのアクセスも良い。唯一の不満は、お風呂の排水口がすぐに髪の毛で詰まってしまうことだった。

美咲は腰まで届く長い黒髪が自慢だったが、それゆえに抜け毛の量も多い。毎晩、お風呂上がりには排水口に絡まった髪の毛を丁寧に取り除くのが日課となっていた。素手で触るのは気持ち悪いため、いつもピンセットを使って一本一本を引き抜いている。

「また随分溜まってる…」

美咲は溜息を吐きながら、今夜も排水口の掃除を始めた。しかし、いつもより髪の毛の量が多い気がする。しかも、自分の髪とは違う色合いの毛も混じっているようだった。茶色がかった髪、グレーの髪、中には赤みを帯びた髪もある。

「隣の部屋の人の髪かな?配管が繋がってるのかも」

美咲は特に気にせず、いつものように髪の毛を取り除いていった。

翌日の夜、排水口を覗くと、昨日よりもさらに大量の髪の毛が詰まっていた。美咲が引っ張ると、長い髪がまるで生きているかのようにくねくねと動きながら上がってくる。その光景に少し気味悪さを感じたが、美咲は淡々と作業を続けた。

「本当に多いな…管理会社に相談した方がいいかも」

三日目の夜。美咲がお風呂場に入ると、排水口から髪の毛が溢れ出していた。まるで黒い海藻が波打つように、長い髪の毛たちが排水口の周りに広がっている。

「えっ…何これ」

美咲は慌ててピンセットを取り出し、髪の毛を引っ張り始めた。するといくら引っ張っても切れることなく、延々と排水口から髪が出てくる。十分、二十分と引き続けても、まだ髪は出てくる。

その時、引っ張っている髪に何か重いものが引っかかっているのを感じた。美咲がさらに力を込めて引くと、排水口の奥から薄っすらと白いものが見えてきた。

それは人の顔だった。

水に濡れて腫れ上がった女性の顔が、絡み合った髪の毛に包まれながらゆっくりと排水口から浮き上がってくる。閉じられた瞼、青白い唇、そして頭全体を覆う濡れた長い髪。

「きゃあああああ!」

美咲は悲鳴を上げて後ずさりしたが、手にはまだピンセットが握られており、髪の毛は離れない。顔はさらに浮き上がり、今度は肩が見えてきた。水滴を滴らせながら、その女性の上半身が排水口から這い出そうとしている。

美咲はピンセットを放り投げて浴室から逃げ出した。しかし部屋に戻っても、浴室からじゅるじゅると水が流れる音が聞こえ続けている。

翌朝、恐る恐る浴室を覗くと、そこには何もなかった。排水口も普通の状態に戻っている。美咲は昨夜のことを悪夢だったと思い込もうとした。

しかしその日の夜、再び排水口から髪の毛が溢れ出した。今度は昨夜よりも大量で、浴室の床一面に広がっている。美咲が震えながら近づくと、髪の毛の隙間から複数の目がこちらを見つめていた。

水底からの視線。

それは一つではなかった。二つ、三つ、四つ…数え切れないほどの目が、絡まり合った髪の毛の間からじっと美咲を見上げている。

「助けて…」

髪の毛の隙間から、か細い声が聞こえてきた。

「私たちを…引き上げて…」

美咲が気づいたのは、その時だった。この三年間、毎晩排水口から取り除いていた髪の毛は、全て自分のものではなかった。それらは、このマンションで過去に何らかの理由で亡くなった女性たちの髪だったのだ。

管理人に確認すると、このマンションでは過去に三人の女性が浴室で溺死していた。一人は自殺、一人は事故、もう一人は原因不明の突然死。彼女たちの霊が、排水口の奥深くに留まり続けていたのだ。

「なぜ私に…」

「あなたが…唯一私たちに気づいてくれた人だから…」

髪の毛に包まれた女性の一人が答えた。

「毎晩、私たちの髪を丁寧に取り除いてくれた…だから私たちは、あなたを信じている…」

美咲は震えながらも理解した。彼女たちは悪意を持っているわけではない。ただ、長い間この場所に縛られ続け、誰かに気づいてもらいたかっただけなのだ。

「私に何をしてほしいの?」

「供養を…お線香を一本、排水口に…」

美咲は翌日、お線香を買ってきて、浴室で彼女たちのために祈りを捧げた。線香の煙が排水口に吸い込まれていくと、髪の毛たちも静かに消えていった。

それ以来、排水口に髪の毛が異常に溜まることはなくなった。しかし美咲は時々、お風呂に入りながら思う。

この世界には、気づかれることを待ち続けている魂が、まだたくさんいるのかもしれない。

そしてある夜、美咲が鏡を見ていると、自分の髪の毛に見慣れない白い毛が数本混じっているのに気づいた。それらは彼女たちからの感謝の印なのか、それとも…

美咲は急いで白髪を抜こうとしたが、それらの髪は根深く、まるで彼女の頭皮の奥深くまで根を張っているかのように、決して抜けることはなかった。