深夜二時、聖心総合病院の四階内科病棟は静寂に包まれていた。新人看護師の田中美咲は、入職してまだ三ヶ月という緊張感を胸に、夜勤の巡回業務を行っていた。廊下の蛍光灯が一本置きに消され、薄暗い通路を歩く足音だけが響いている。
美咲は患者のカルテを片手に、各病室を順番に回っていく。四〇一号室から四一五号室まで、すべて順調に終わった。最後の四一六号室は、昨日退院した患者の部屋で、現在は空室のはずだった。しかし、ドアの隙間から漏れる微かな光が気になった。
「あれ?電気が点いてる…」
美咲は首をかしげながら、そっとドアノブに手をかけた。室内を覗くと、確かに誰もいない。ベッドはきちんと整頓され、床頭台も片付けられている。しかし、窓際に設置された血圧計の画面だけが青白く光っていた。
「ピッ、ピッ、ピッ…」
規則正しい電子音が室内に響いている。美咲は不審に思いながら部屋に入った。血圧計に近づくと、液晶画面には信じられない数値が表示されていた。
収縮期血圧:280 拡張期血圧:180 脈拍:150
「こんな血圧、生きてられるわけない…」
美咲は思わず呟いた。正常な血圧は一二〇/八〇程度、高血圧でも一八〇/一一〇を超えることは稀だ。280という数値は、まさに生命の危険を意味している。しかし、カフ(腕に巻く部分)には何も装着されていない。空気の入っていないカフが、テーブルの上にだらりと垂れ下がっているだけだった。
「故障かしら…」
美咲が電源ボタンに手を延ばそうとした時、血圧計の数値が急激に変化した。
収縮期血圧:320 拡張期血圧:220 脈拍:200
画面の数字が赤く点滅し始める。電子音も次第に早くなっていく。「ピピピピピ…」まるで誰かの心拍数に合わせているかのように。
美咲の背中に冷たいものが走った。誰もいない部屋なのに、まるで誰かがそこにいて、血圧を測っているかのようだった。それも、異常に高い血圧を示す、死の淵にいる患者が。
窓の外で風が吹き、カーテンが微かに揺れる。その時、美咲は背後に気配を感じた。振り返ろうとした瞬間、窓ガラスに映る自分の姿と一緒に、もう一つの影が見えた。
白い看護服を着た女性の姿。しかし、その顔は青白く、目は虚ろに見開かれている。髪は乱れ、口元には血の跡のような赤い染みが…
美咲は凍りついた。窓に映る看護婦の幽霊と、視線が合ってしまったのだ。その瞬間、血圧計の警告音が最高潮に達する。
「ピーーーーーッ!」
突然、すべての音が止んだ。血圧計の画面が真っ黒になり、室内は再び静寂に包まれる。美咲が恐る恐る振り返ると、そこには誰もいなかった。
翌朝、美咲は先輩看護師の佐藤に昨夜の出来事を話した。
「四一六号室で変なことがあったんです。血圧計が勝手に作動して…」
佐藤の顔が急に曇る。
「四一六号室?あそこは…」佐藤は声を潜めた。「三年前に看護師が亡くなった部屋よ。夜勤中に急に倒れて。死因は脳出血だった。発見された時、血圧計に向かって倒れていたの。最後の血圧測定値は…確か280だったかしら」
美咲の血の気が引いた。
「その看護師さんの名前は?」
「山田恵子さん。まだ二十六歳だった。夜勤明けで疲労が蓄積していたのか、突然の高血圧で…」佐藤は首を振る。「それ以来、四一六号室では時々おかしなことが起こるの。血圧計が勝手に作動したり、誰もいないのに看護師の足音が聞こえたり」
美咲は震え声で尋ねた。
「その山田さんって…どんな人だったんですか」
「責任感が強くて、患者さん思いの良い看護師だった。でも完璧主義すぎて、自分を追い込んでしまう癖があったの。最期まで血圧を測ろうとしていたなんて…本当に看護師の鑑だったわ」
その日の夜、美咲は再び四一六号室の前を通った。部屋は真っ暗で、何の音も聞こえない。しかし、ドアの隙間から微かに聞こえる声があった。
「患者さん、血圧を測らせてくださいね…」
優しく、それでいて切ない女性の声だった。美咲は立ち止まり、そっと耳を澄ませる。
「あら、少し高いですね。お薬、ちゃんと飲んでいらっしゃいますか?」
誰もいない部屋で、山田恵子は今も患者の世話を続けているのだ。死してなお、看護師としての使命を果たそうとしている。
美咲は静かにその場を立ち去った。四一六号室の血圧計は、今夜も誰かの生命を測り続けているに違いない。それは生者のものではないかもしれないが、確実に誰かの心臓の鼓動を刻んでいる。
数日後、四一六号室に新しい患者が入院することになった。高血圧症の老人男性だった。美咲が血圧測定をしようとすると、血圧計は正常に作動した。しかし、測定が終わった後、画面に一瞬だけ別の数値が表示された。
収縮期血圧:120 拡張期血圧:80 脈拍:72
完璧に正常な値だった。まるで誰かが「大丈夫ですよ」と言っているかのように。
美咲は微笑んだ。山田恵子はまだそこにいる。見えない患者の血圧を測り、見えない看護を続けている。それは恐怖ではなく、むしろ安心できることなのかもしれない。
ただし、深夜に四一六号室を通る時、美咲は必ず足音を立てるようにしている。そこで静かに働き続ける先輩看護師に、敬意を表するために。
血圧計の謎は解けた。それは故障ではなく、永遠に続く献身的な看護の証だったのである。