桜ヶ丘高校二年三組の教室に、最初の落書きが現れたのは五月の連休明けだった。
朝一番に教室に入った委員長の田中美咲は、黒板の右端に小さく書かれた文字を見つけて首をかしげた。
『佐藤は母親の薬を盗んでいる』
「何これ?」
美咲は眉をひそめた。佐藤というのは、クラスメイトの佐藤健のことだろう。彼は最近やつれて見えることがあったが、まさかそんな理由が。
「おはよう、田中さん」
振り返ると、佐藤健が教室に入ってきた。顔色は相変わらず悪く、目の下に薄いクマができている。
「あ、おはよう」美咲は慌てて黒板の前に立ち、文字を隠した。「ちょっと待って、今消すから」
「何を?」
「えっと、いたずら書きが」
美咲は黒板消しを手に取り、その文字を消そうとした。しかし、チョークで書かれているはずなのに、黒板消しが触れても文字は消えない。まるで黒板に刻み込まれているかのようだった。
「田中さん、どうしたの?」
佐藤が近づいてくる。美咲は焦って、今度は濡れた雑巾で擦ってみた。それでも文字は消えない。
「ちょっと、これ変じゃない?」
結局、二人で必死に擦り続けた結果、ようやく文字は薄くなっていった。しかし完全に消えることはなく、薄い跡が残った。
その日の授業中、佐藤は三度も保健室に行った。
翌日、美咲が教室に入ると、昨日消したはずの場所に再び文字が浮かんでいた。今度は前日よりもはっきりと。
『佐藤は母親の薬を盗んでいる。今日も三錠。』
さらに、左端に新しい文字が加わっていた。
『山田は万引きの常習犯。今度は本屋で雑誌を。』
山田というのは、クラスの山田太郎のことだ。彼は最近、新しい雑誌をよく持っていたが。
美咲の背筋に冷たいものが走った。これは単なるいたずらではない。誰かがクラスメイトを監視している。
「また出てる」
教室に入ってきた親友の鈴木麻衣が、美咲の肩越しに黒板を見て息を呑んだ。
「これ、本当のことなの?」
「分からない。でも」美咲は振り返った。「昨日の佐藤君の様子、見てたでしょ?」
二人は無言でうなずいた。
今度も二人で必死に文字を消そうとしたが、前日以上に文字は頑固だった。雑巾が破れるほど擦っても、文字は薄くなるだけで消えない。
その日、山田太郎は早退した。理由は体調不良だったが、彼の表情は青ざめていた。
三日目。黒板の文字はさらに増えていた。
『佐藤は母親の薬を盗んでいる。今日も三錠。明日は五錠。』 『山田は万引きの常習犯。今度は本屋で雑誌を。明後日は文房具店で。』 『田中美咲は去年の文化祭で生徒会費を着服した。三万円。』
美咲の心臓が止まりそうになった。それは事実だった。文化祭の準備で、一時的に生徒会費を借りて、返すつもりでいた。でも結局、バイト代が入るまでそのままにしてしまい、誰にも言えずにいた。
「美咲?」麻衣が心配そうに声をかけた。
「これ、誰が書いてるの?」美咲の声は震えていた。
「監視カメラでも設置して調べましょう」麻衣が提案した。
しかし、その提案を実行する前に、事態はさらに悪化した。
四日目の朝、黒板にはこう書かれていた。
『今日の三時間目、鈴木麻衣は階段から落ちる。右足首を骨折。』
「嘘でしょ?」麻衣が青ざめた。
美咲は震える手で携帯を取り出し、写真を撮った。証拠を残さなければ。
「今日は階段に近づかないで」美咲は麻衣の手を握った。
しかし、三時間目の体育の時間、体育館への移動で麻衣は階段を使わざるを得なくなった。美咲が必死に止めようとしたその時、誰かが麻衣を後ろから押した。
麻衣は階段を転げ落ち、右足首を骨折した。
その夜、美咲は一人で学校に忍び込んだ。黒板の謎を解明しなければならない。
深夜の教室で、美咲は黒板の前に立った。懐中電灯の光が黒板を照らす。昼間は薄く見えていた文字が、なぜか夜になるとはっきりと浮かび上がって見えた。
そして、新しい文字が現れるのを待った。
午前二時。
黒板に文字が浮かび上がり始めた。しかし、それを書いているのは人間ではなかった。まるで見えない手が、空中でチョークを動かしているかのように、文字が一画ずつ現れていく。
『明日、田中美咲は屋上から飛び降りる。午後三時十五分。』
美咲の血が凍った。
「そんな、私は死なない。絶対に」
しかし、文字は続いた。
『なぜなら、すべてを知ってしまったから。』
その時、教室の扉がゆっくりと開いた。
振り返ると、そこに立っていたのは担任の高橋先生だった。しかし、その表情は昼間見慣れたものとは全く違っていた。目が異様に光り、口元に薄い笑みを浮かべている。
「やっと来てくれたね、田中さん」
高橋先生の声は普段より低く、どこか機械的だった。
「先生?なぜここに?」
「君が真実を知りたがっているからさ」高橋先生は黒板に近づいた。「この落書きの正体を」
「この黒板はね」高橋先生は黒板に手を置いた。「特別なんだ。前の学校から持ってきた」
美咲は後ずさりした。
「二十年前、私が新任教師だった頃の話だ。ある生徒が、この黒板に向かって願い事を書いた。『クラスメイトの秘密が知りたい』とね」
高橋先生の目が異様に光る。
「その願いは叶った。しかし、代償があった。願いを書いた生徒は、一週間後に屋上から飛び降りて死んだ。そして黒板は、その生徒の魂を吸収した」
美咲は恐怖で動けなかった。
「それ以来、この黒板は勝手に人の秘密を暴き、未来を予言するようになった。そして、真実を知った者を死へと導く」
「でも、なぜ私たちのクラスに?」
「君たちのクラスには、特別な『才能』を持つ生徒がいるからだ」高橋先生は美咲を見つめた。「秘密を抱えた生徒、罪悪感に苛まれた生徒。そういう魂の『味』を、この黒板は好むんだ」
黒板の文字が再び動き始めた。
『田中美咲、午後三時十五分まであと十三時間十三分。』
「でも、私は飛び降りない。絶対に」
「それは君が決めることじゃない」高橋先生が笑った。「黒板が決めるんだ」
美咲は懐中電灯を高橋先生に向けて投げつけ、教室から逃げ出した。
廊下を走りながら、携帯で警察に電話しようとしたが、圏外になっていた。学校全体が何か異常な空間になっているようだった。
屋上へ続く階段の前で、美咲は立ち止まった。なぜか、足が勝手にそちらに向かおうとする。
「だめ、行っちゃだめ」
しかし、意志とは関係なく、足が階段を上り始めた。まるで見えない手が背中を押しているかのように。
屋上に着くと、そこには既に高橋先生が立っていた。
「時間通りだね」高橋先生は腕時計を見た。「午後三時十四分」
「なぜ?なぜ私が死ななければならないの?」
「君が黒板の秘密を知ってしまったからだ。そして」高橋先生は振り返った。「君には他にも秘密があるだろう?」
美咲の心臓が早鐘を打った。
「去年の文化祭の三万円だけじゃない。君は中学生の時、親友を裏切ったことがある。受験の時、答案用紙を盗み見したこともある」
「どうして、それを」
「黒板が教えてくれるんだ。人の心の奥底に潜む、暗い秘密を」
午後三時十五分。
美咲の足が、勝手に屋上の縁に向かって動き始めた。
しかし、その時だった。屋上の扉が開き、麻衣が現れた。ギプスをした足を引きずりながら。
「美咲、だめ!」
「麻衣?なぜここに?」
「あなたの携帯のGPSで追跡したの。夜中に学校にいるって分かって」
麻衣は美咲の手を掴んだ。
「高橋先生も、あの黒板の犠牲者なのよ。二十年前、黒板に願い事を書いた生徒は、高橋先生自身だったの」
高橋先生の顔が歪んだ。
「それは違う。私は」
「病院で調べたの」麻衣は続けた。「二十年前、高橋先生は生徒として桜ヶ丘高校にいた。そして、クラスメイトの秘密を知りたくて黒板に願い事を書いた」
「だから、死んだのは高橋先生よ。今ここにいるのは、黒板に憑依された先生の魂」
高橋先生の姿がゆらゆらと揺れ始めた。
「私は、私は死んでいない」
「先生も犠牲者なの。黒板に操られているだけ」麻衣は美咲を引っ張った。「一緒に逃げましょう」
二人は屋上から逃げ、教室に戻った。
黒板には新しい文字が現れていた。
『すべての秘密を受け入れろ。そうすれば解放される。』
「これよ」麻衣が言った。「黒板は人の秘密を暴いて、その罪悪感で人を支配している。でも、秘密を受け入れて、向き合えば」
美咲は震える手で、チョークを取った。
そして黒板に書いた。
『私、田中美咲は生徒会費を三万円着服しました。明日、全額返済し、謝罪します。』
文字を書き終えた瞬間、黒板全体が光った。
そして、今まで書かれていたすべての文字が、煙のように消えていった。
教室に高橋先生が現れた。しかし、今度は普通の先生の顔をしていた。
「あれ?なぜ私はここに?」先生は混乱していた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ、美咲さん。なぜか夢を見ていたような」高橋先生は頭を押さえた。「二十年前の、生徒時代の夢を」
黒板を見ると、そこには何も書かれていなかった。ただの、普通の黒板だった。
翌日から、黒板に奇怪な落書きが現れることはなくなった。
美咲は約束通り、生徒会費を返済し、生徒会で謝罪した。思っていたより、みんなは理解してくれた。
佐藤君は母親の病気について相談し、学校のカウンセラーの支援を受けることになった。
山田君も万引きを止め、アルバイトを始めた。
そして麻衣の足首も、順調に回復していった。
高橋先生は、二十年前の記憶を少しずつ思い出していた。生徒時代の自分が、人の秘密を知りたがっていたこと。そして、その願いが引き起こした悲劇を。
「秘密は誰にでもある」高橋先生は美咲に言った。「大切なのは、それと向き合う勇気を持つことだ」
教室の黒板は、今日も真っ黒で綺麗だった。
しかし美咲は知っていた。人の心の奥底には、まだ誰にも言えない秘密が眠っていることを。そして、それらの秘密は、時として人を支配しようとすることを。
でも、それでも人は生きていかなければならない。秘密と向き合いながら、一歩ずつ前に進んでいくのだ。
黒板の落書きは消えた。しかし、人の心に刻まれた教訓は、永遠に残り続けるのだった。