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視線の先に

ベランダから見えるマンション

八月の終わり、夜の熱気が肌にまとわりつく。エアコンの効きが悪くなった部屋から逃れるように、私はベランダに出て涼を求めていた。

時刻は午後十一時を回っている。この時間になると、向かいの七階建てマンションも大半の部屋が暗くなり、静寂が辺りを包む。私の住むアパートは四階。向かいのマンションとの距離は十メートルほどだろうか。

缶ビールを片手に夜風を感じていると、ふと向かいの五階のベランダに人影があることに気づいた。

暗がりの中、その人物は手すりに寄りかかるようにして立っている。こちらを見ているのか、それとも別の方向を向いているのかは判然としなかった。近隣住民の一人だろう。私と同じように涼んでいるのかもしれない。

軽く会釈をして、私は部屋に戻った。

翌日の夜も、私は習慣のようにベランダに出た。向かいのマンションを何気なく見上げると、昨夜と同じ場所に同じ人影がある。今度は確実にこちらを向いているように見えた。

薄っすらとした街灯の明かりに照らされて、その人物の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。背丈は中肉中背、服装は白っぽいシャツのようだ。性別は判別できない。

私は再び軽く手を振ってみた。しかし、向こうからの反応はない。まるで石像のように微動だにしなかった。

三日目の夜。私がベランダに出ると、その人影は既にそこにいた。同じ場所、同じ格好。まるで私が来るのを待っていたかのように。

少し気味が悪くなって、私は早々に部屋に戻った。カーテンの隙間から外を覗くと、その人影はまだそこにいる。じっと、こちらを見つめているような気がした。

四日目、五日目、六日目……。毎晩、その人影は同じ場所にいた。雨の日も、風の強い日も関係なく。まるで張り付いているかのように。

一週間が過ぎた頃、私は日中でも妙な視線を感じるようになった。在宅勤務中、パソコンに向かっていると背中に冷たい視線を感じる。振り返って窓の外を見ると、向かいのベランダにはいつもの人影が立っている。

昼間でも、だ。

真夏の炎天下、その人物は白いシャツ姿でベランダに立ち続けている。熱中症にならないのだろうか。そもそも、仕事はしていないのか。疑問は募るばかりだった。

二週間目に入ると、異変は家の中にも及んだ。

夜中にふと目が覚めると、誰かに見られているような感覚に襲われる。部屋の中に誰かいるような、そんな気配を感じるのだ。電気をつけて部屋中を確認しても、当然誰もいない。玄関の鍵も掛かったままだ。

だが、気配だけは消えない。まるで誰かが暗闇の中から私を見つめているような、そんな感覚が続いた。

睡眠不足が続き、仕事にも支障をきたすようになった。管理会社に連絡を取り、向かいのマンションの住人について尋ねてみた。しかし、プライバシーの問題で詳しいことは教えてもらえない。ただ、「特に苦情等は入っていない」との回答だけだった。

三週間目。ついに私は決断した。直接、向かいのマンションに行って話をつけよう。

夕方、私は向かいのマンションの玄関前に立った。オートロックのマンションだが、住人が出てくるタイミングを見計らって中に入る。エレベーターで五階まで上がり、例のベランダがある部屋を探した。

部屋番号は505号室。インターホンを押す。

「はい」

予想外に若い女性の声が返ってきた。

「あの、向かいのアパートに住んでいる者ですが、ちょっとお話が……」

「向かい? あ、もしかして四階の?」

ドアが開いた。現れたのは二十代後半と思しき女性だった。色白で華奢な体型。とても人畜無害そうな印象だ。

「実は、こちらのベランダから、毎晩私の部屋の方を見ている方がいらっしゃるようで……」

女性の表情が急に曇った。

「ベランダですか? 私、ベランダにはほとんど出ないんですが……」

「白いシャツを着た方で、毎晩同じ時間に……」

「白いシャツ……」

女性は何かを思い出すような表情を見せた。そして、青ざめた顔で私を見つめた。

「実は……一ヶ月前まで、ここには私の兄が住んでいたんです。白いシャツをよく着ていて……。でも兄は、三週間前に亡くなりました」

私の血の気が引いた。

「亡くなったって……」

「事故でした。夜遅く、ベランダから転落して……。兄はよくベランダで夜風に当たるのが好きだったんです」

女性の声が震えていた。

「でも、それなら……毎晩ベランダに立っているのは……」

「お兄さんが亡くなったのは、ちょうど私がその人影を見始めた時期と一致する」

私たちは顔を見合わせた。

「一度、一緒にベランダを見てもらえませんか?」

女性は頷いた。私たちは505号室のベランダに出た。

そこから私のアパートがよく見える。そして、私の部屋のベランダには……。

「あそこに、白いシャツの人がいませんか?」と私は指差した。

女性は首を振った。

「何も見えません。誰もいませんよ」

私は愕然とした。確かに見えるのだ。私のアパートのベランダに、白いシャツを着た人影が立っている。そして、こちらを見つめている。

「本当に見えないんですか?」

「はい……。でも」

女性が振り返る。505号室のベランダの手すりには、小さな花束が置かれていた。

「兄の好きだった花です。毎日新しいものに替えているんです。兄は生前、向かいのアパートの方をよく見ていました。『あそこに住んでいる人、毎晩ベランダに出るね』って」

私は戦慄した。

「まさか……」

「もしかすると、兄はまだ、あなたを見ているのかもしれません。でも、兄の視点から」

その瞬間、私は全てを理解した。

毎晩私が見ていた白いシャツの人影。それは亡くなったお兄さんの霊だった。しかし、霊が立っていたのは向かいのベランダではない。私のベランダだったのだ。

私は霊の視点で、霊の記憶を見ていたのだ。亡くなったお兄さんが生前見ていた光景を、霊となった今も繰り返し見続けている。その記憶に私が巻き込まれていたのだ。

だから家の中でも視線を感じた。霊は私の部屋の中にいた。私を見続けていた。

私が向かいのベランダに人影を見たとき、実際には私自身が霊に憑依されかけていたのだ。霊の記憶と私の現実が混濁し始めていた。

「お兄さんに、もう大丈夫だと伝えてください」私は震え声で言った。「私はもうベランダには出ません」

女性は頷いた。「兄に、安らかに眠るよう言っておきます」

その夜から、私は一切ベランダに出なくなった。カーテンも閉めっぱなしにした。

それから一週間後、女性から連絡があった。

「昨夜、兄の夢を見ました。『ありがとう』と言って、光の中に消えていきました。もう大丈夫だと思います」

私はほっと胸をなでおろした。しかし、その安堵も束の間だった。

引っ越しの準備をしていたある夜、ふと鏡を見ると、その中に白いシャツを着た男性が映っているのを見てしまったのだ。

鏡の中の男性は、静かに微笑んでいた。