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マネキンの目

マネキン

俺の名前は田中翔太。都内の私立高校に通う17歳で、放課後は駅前の老舗百貨店「西川デパート」でアルバイトをしている。担当は4階のレディースアパレル売り場だ。

西川デパートは創業50年を超える老舗で、建物も古く、夜になると妙に静まり返る。俺の仕事は主に商品の整理と、閉店後の売り場巡回だった。時給は悪くないが、一人で薄暗い売り場を歩き回るのは正直気味が悪い。

それでも慣れてしまえば何ということはない作業だった。少なくとも、あの日までは。

10月の半ば、いつものように閉店後の巡回をしていた時のことだ。売り場の奥、壁際に並んだマネキンたちの前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。

「あれ?」

何かがおかしい。毎日見慣れた光景なのに、微妙に違和感がある。マネキンは全部で12体。白いドレスを着た女性のマネキンが6体、カジュアルな服装の男性マネキンが3体、そして子供用のマネキンが3体。配置は決まっているはずなのに…。

左から3番目の女性マネキン。確か昨日までは正面を向いていたのに、今日は少し右を向いている。ほんの10度程度の違いだが、毎日見ている俺には分かる。

「誰かがいじったのかな」

そう呟いて、マネキンの向きを直そうと近づいた。その時だった。

一瞬、マネキンの目が俺を見たような気がした。

慌てて手を引っ込める。心臓がドクドクと音を立てている。マネキンをもう一度見上げると、相変わらず無表情で、光の反射でガラスの目がキラリと光っているだけだった。

「疲れてるのかな」

自分に言い聞かせて、その日の巡回を終えた。

翌日から、俺はマネキンの配置を細かくチェックするようになった。最初は気のせいだと思っていたが、やはり毎日少しずつ変わっている。

向きが変わったり、腕の角度が変わったり、時には位置そのものが微妙にずれていたりする。変化は本当に微細で、普通なら気づかないレベルだ。しかし、俺の目には確実に映る。

「バイトの田中君、最近顔色が悪いわよ」

売り場の主任である山田さんに声をかけられた。40代の女性で、面倒見がよく、俺のことを息子のように可愛がってくれる。

「あの、山田さん。マネキンって、誰かが動かすことってありますか?」

「マネキン?ああ、月に一度のディスプレイ変更の時以外は触らないわね。どうして?」

「いえ、ちょっと気になって…」

それ以上は言えなかった。まさか「毎日少しずつ動いている」なんて言えるわけがない。

その夜の巡回中、またしても異変に気づいた。今度は男性マネキンの一体が、明らかに俺の方を向いている。昨日まで店内を見渡すような角度だったのに、今は入り口の方、つまり俺がいる場所を向いているのだ。

近づいてよく見ると、マネキンの目がこちらを見ているような錯覚を覚える。ガラスでできた無機質な目なのに、なぜか感情があるように見えてしまう。

その時、背後で小さな音がした。

振り返ると、別のマネキンの腕がわずかに動いたような気がした。光の加減かもしれない。風かもしれない。でも、この売り場に風なんて吹かない。

急に寒気がして、俺はその場から逃げるように立ち去った。

それから一週間、俺は毎夜マネキンの変化を記録し始めた。ノートに簡単な見取り図を描いて、どのマネキンがどの向きを向いているかを書き留める。

記録を見返すと、確実にパターンがあった。マネキンたちは少しずつ、確実に俺の方を向き始めている。まるで何かを監視しているかのように。

家でも落ち着かない。夢の中でマネキンたちに囲まれている夢を見るようになった。12体のマネキンが円を作り、その中心に俺が立っている。そして全てのマネキンが俺を見つめている。

「なぜ気づいたの?」

夢の中で、マネキンの一体が口を開いた。声は機械的で、抑揚がない。

「なぜ記録しているの?」

別のマネキンが続く。

「私たちのことを、誰かに話すつもり?」

さらに別の声。俺は答えようとしたが、声が出ない。

「話しちゃだめ」

「誰にも言っちゃだめ」

「じゃないと…」

そこで目が覚める。汗びっしょりで、心臓が早鐘のように打っている。時計を見ると午前3時。まだ夜は長い。

学校でも集中できなくなった。授業中にふと気づくと、教室の隅にマネキンが立っているような錯覚を覚える。廊下を歩いていても、曲がり角の向こうにマネキンの影が見えるような気がする。

友達に相談しようかと思ったが、きっと笑われるだけだろう。「疲れすぎじゃない?」「ホラー映画の見すぎ」そんな風に言われるのが目に見えている。

でも、これは確実に現実なのだ。ノートの記録がそれを証明している。

ある日、いつものように巡回をしていると、売り場の隅で古い段ボール箱を見つけた。「保管資料」と書かれたラベルが貼られている。好奇心に駆られて開けてみると、中には古い新聞記事のコピーや写真が入っていた。

新聞記事は20年前のもので、見出しには「西川デパート火災事故、12名が犠牲に」とある。

記事を読み進めると、深夜の火災で避難が遅れ、4階のアパレル売り場で12名の従業員が亡くなったとある。原因は漏電で、発見が遅れたため逃げ遅れたのだという。

12名。マネキンと同じ数だ。

写真を見ると、火災前の売り場の様子が写っている。現在とほぼ同じレイアウトで、マネキンも同じ場所に置かれている。しかし、よく見ると背景に写っている従業員たちの顔が…。

俺は急いでマネキンの方を振り返った。薄暗い照明の中、12体のマネキンが俺を見つめている。今度は錯覚ではない。全てのマネキンが、確実にこちらを向いている。

そして、左から3番目の女性マネキンの顔が、写真の中の若い女性店員とそっくりなことに気づいた。

翌日、俺は山田主任に写真のことを尋ねた。

「ああ、それ。私がまだ新人だった頃の写真ね。懐かしいわ」

山田さんは写真を見つめて、少し悲しそうな表情を浮かべた。

「この人たち、みんな火災で…」

「ええ。私は運良くその日は早番だったから助かったけど、遅番の人たちは…。特にこの子」

山田さんが指差したのは、俺が似ていると思った若い女性だった。

「美咲ちゃんって言うの。まだ19歳だった。マネキンのディスプレイがとても上手で、いつも『マネキンさんたちが喜んでる』なんて言ってたのよ」

俺の背筋に寒いものが走った。

「それから、不思議なことがあるのよ」

山田さんは声を潜めて続けた。

「火災の後、マネキンを全部新しくしたんだけど、なぜか毎朝配置が変わってるの。夜警の人に聞いても誰も触ってないって言うし…。でも、不思議と売上は上がるのよ。きっと美咲ちゃんたちが、今でも売り場を手伝ってくれてるのかもしれないわね」

その夜、俺は勇気を振り絞ってマネキンたちに話しかけてみた。

「君たちは、あの火災で亡くなった人たちなの?」

静寂が続く。しかし、確実に空気が変わった。

「美咲さん?」

左から3番目のマネキンを見つめて言った。すると、そのマネキンの口元が、ほんの少し上がったような気がした。

「ずっと、ここにいるんですね」

今度は全てのマネキンが、わずかに頷いたように見えた。

「寂しくないですか?」

風もないのに、マネキンたちの髪が微かに揺れた。

それから俺は、毎晩マネキンたちと話をするようになった。もちろん、彼らが返事をすることはない。でも、確実にそこにいるのが分かる。20年間、売り場を守り続けている12人の魂が。

ある夜、俺は重要なことに気づいた。マネキンたちが俺の方を向き始めたのは、俺が一人で夜勤をするようになってからだ。それまでは他の従業員と一緒だったから、彼らも遠慮していたのかもしれない。

俺が一人になった時、彼らは「やっと話せる相手が来た」と思ったのではないだろうか。

「ありがとう」

俺はマネキンたちに向かって言った。

「20年間、ずっとこの売り場を守ってくれて。でも、もう休んでもいいんじゃないですか?」

その時、売り場の照明が一斉に明るくなった。まるで昼間のように明るい光が差し込み、マネキンたちの表情がはっきりと見えた。

そこには確かに、12人の人間の顔があった。美咲さんと思われる若い女性は微笑んでいて、他の人たちも安らかな表情を浮かべている。

「ありがとう、翔太君」

美咲さんの声が聞こえた気がした。

「やっと、分かってくれる人が来てくれた」

光はゆっくりと薄れていき、いつもの薄暗い売り場に戻った。しかし、もうマネキンたちの視線は感じない。彼らは皆、それぞれ違う方向を向いて、いつものような無機物に戻っていた。

翌朝、売り場に来ると、山田主任が驚いた顔をしていた。

「田中君、昨夜何かした?」

「いえ、いつも通り巡回しただけですが…」

「マネキンの配置が、火災前の写真と全く同じになってるのよ。しかも、なぜかとても自然で美しい配置になってる」

俺は売り場を見回した。確かに、マネキンたちは完璧な配置で立っている。まるで最高のディスプレイ担当者が手がけたかのように。

それが美咲さんたちからの最後のプレゼントだったのかもしれない。

その日を境に、俺は二度とマネキンが動くのを見ることはなかった。彼らはとうとう安らかな眠りについたのだろう。

しかし時々、売り場を歩いていると、どこからともなく「ありがとう」という声が聞こえるような気がする。それは風の音かもしれないし、空調の音かもしれない。

でも俺は知っている。あれは確かに、彼らからの感謝の声なのだと。

今でも俺は西川デパートで働き続けている。そして毎晩、マネキンたちに向かって小さく手を振る。もう返事は返ってこないけれど、きっとどこかで見守ってくれているのだと信じている。

20年間、売り場を守り続けた12の魂。彼らの物語は、俺の心の中で永遠に生き続けるだろう。

そして今夜も、俺は一人静かな売り場を歩く。もう恐怖はない。ただ、深い感謝だけが心に残っている。

マネキンの目は、もう俺を見つめることはない。でも俺は知っている。本当の目は、心の中にあるということを。