私と拓也がアパートをシェアし始めてから、もう半年が経っていた。大学の近くにある築二十年のマンションで、家賃は安いが設備は古い。それでも二人で割れば負担は軽く、お互いの生活リズムも似ていたので、特に問題なく共同生活を送っていた。
その夜も、いつものように深夜まで課題に追われていた。拓也は既に自分の部屋で眠っているようで、リビングには私一人。時計を見ると午前1時50分を回っていた。そろそろ寝ようかと思い、参考書を閉じたその時だった。
「ドンドンドン」
玄関ドアを叩く音が響いた。力強く、執拗に。まるで急を要する何かがあるかのように。
私は身を硬くした。こんな時間に誰が来るというのだろう。宅配便でもこの時間はありえない。救急車や警察なら、もっと違う対応をするはずだ。
「ドンドンドン、ドンドンドン」
ノックは止まない。むしろ激しくなっているようにも感じられた。私は恐る恐る玄関に向かい、インターホンのモニターを確認した。
画面には誰も映っていない。
廊下の電気は点いているのに、ドアの前には人影一つ見えない。しかし、ノックの音は確実に聞こえている。
「ドンドンドン、ドンドンドン」
音は規則的で、まるで機械のように正確だった。人間が叩いているなら、疲れてペースが乱れるはずなのに。
私は拓也を起こすべきか迷った。しかし、きっと聞き間違いか、誰かのいたずらだろうと自分に言い聞かせ、様子を見ることにした。
十分ほど経つと、ノックは突然止んだ。まるで何事もなかったかのように、静寂が戻った。私はほっと息をつき、きっと酔っ払いが間違えたドアを叩いていたのだろうと結論づけた。
翌朝、拓也が珍しく早起きしてキッチンにいた。私が「おはよう」と声をかけると、彼は振り返って言った。
「昨夜、何か聞こえなかった?」
私の心臓が一瞬止まった。
「何が?」
「深夜の2時頃かな。ドアを叩く音。すごく激しくて、目が覚めちゃったんだ」
私は息を呑んだ。拓也も同じ音を聞いていたのだ。そして、時間も私が体験したのとほぼ同じだった。
「インターホン、確認した?」私は震え声で尋ねた。
「いや、君が対応してるのかと思って。でも、結局止んだよね?」
私たちは顔を見合わせた。二人とも同じ音を聞いていたのに、誰もドアの前にはいなかった。これは偶然では片付けられない。
「ちょっと外を見てみない?」拓也が提案した。
私たちは玄関ドアを開け、外に出た。廊下は静寂に包まれ、他の住人が起きている気配もない。しかし、ドアを見下ろした時、私たちは息を呑んだ。
ドアの下半分に、小さな手形がいくつも付いていた。
それは子供の手のサイズで、まるで必死に何かにしがみつこうとするかのように、ドアの表面に押し付けられていた。手形は汚れたような茶色で、乾いていたが、まだ新しいもののように見えた。
「これ…昨日はなかったよね?」拓也が震え声で言った。
私はうなずいた。間違いない。毎日このドアを通っているのに、こんなものがあれば気づかないはずがない。
手形は全部で七つあった。すべて左手で、まるで右手で何かを支えながら、左手でドアを叩いていたかのようだった。そして、その高さは床から80センチほど。大人なら膝を着かなければ届かない位置だった。
「子供が来たってこと?こんな時間に?」私は呟いた。
「でも、インターホンには何も映ってなかったんだろ?」
私たちは困惑した。子供だとしても、カメラに映らないほど小さいとは考えにくい。それに、深夜2時に子供が一人でアパートの廊下にいるなんて、あまりにも不自然だった。
その日、私たちは大学の授業に集中できなかった。頭の中は昨夜の出来事でいっぱいだった。友人に相談してみたが、「きっと近所の子供のいたずらだよ」という反応ばかりで、真剣に取り合ってくれる人はいなかった。
夜が近づくにつれ、私たちの不安は高まった。また同じことが起こるのではないか。今度はもっと激しくなるのではないか。
結局、その夜は二人ともリビングで過ごすことにした。テレビを点けて普通を装っていたが、時計が2時に近づくと、私たちは息を殺して耳を澄ませた。
午前1時58分。
静寂。
1時59分。
まだ何も起こらない。
そして、2時ちょうど。
「ドンドンドン」
今度は昨夜よりも激しかった。ドア全体が震えているのが分かるほどだった。私たちは立ち上がり、インターホンを確認した。
やはり誰も映っていない。
しかし、ノックの音は間違いなく聞こえる。そして今度は、音に混じって何か別のものが聞こえた。
小さな泣き声だった。
子供の、か細い泣き声が、ノックの合間に聞こえてくる。それは絶望的で、助けを求めているようにも聞こえた。
私は思わずドアに近づこうとしたが、拓也が腕を掴んで止めた。
「待て。何かおかしい」
彼の言う通りだった。泣き声は確かに子供のものだが、どこか人間らしくない響きがあった。まるで録音を再生しているかのような、機械的な繰り返しだった。
ノックは三十分ほど続いた後、突然止んだ。泣き声も同時に消えた。
翌朝、私たちは再びドアを確認した。手形はさらに増えていた。今度は右手の跡もあり、まるでドアにしがみついていたかのような配置だった。そして、一番下には膝の跡のようなものまであった。
「これ、警察に届けた方がいいんじゃない?」私が提案した。
「でも、何て説明する?深夜に見えない子供がドアを叩くって?」
拓也の言う通りだった。物的証拠は手形だけで、それも子供のいたずらと片付けられてしまいそうだった。
三日目の夜、私たちは決断した。今度は実際にドアを開けて確認してみようと。何が起ころうとも、真実を知りたかった。
2時が近づくと、私たちはドアの前で待機した。拓也がドアハンドルに手をかけ、私がインターホンを見つめていた。
2時ちょうど。
「ドンドンドン」
ノックが始まった瞬間、拓也がドアを勢いよく開けた。
廊下には誰もいなかった。
しかし、ノックの音は続いていた。まるで透明な何かがドアを叩き続けているかのように。
そして、私たちは見た。
空中に浮かぶ小さな手形の跡を。まるで目に見えない手がドアを叩き続けているかのように、空間に手形が現れては消えていった。
「これは…」拓也が息を呑んだ。
その時、私たちの足元に何かが転がってきた。小さな人形だった。汚れて古ぼけた布製の人形で、顔の部分は擦り切れて表情が分からなくなっていた。しかし、その手の部分だけは妙にリアルで、まるで本物の子供の手のようだった。
人形を拾い上げた瞬間、ノックが止んだ。そして、微かに聞こえていた泣き声も消えた。
私たちは人形を見つめた。よく見ると、人形の手には茶色い汚れが付いていた。まさにドアに残されていた手形と同じ色だった。
「これ、誰のだろう?」私が呟いた。
翌日、私たちは大家さんに人形のことを尋ねてみた。すると、大家さんの顔が急に曇った。
「ああ、それは…五年前にこのマンションで起きた事故のことかもしれません」
私たちは身を乗り出した。
「三階に住んでいた家族の子供が、エレベーターに挟まれて亡くなったんです。まだ五歳でした。その子がいつも持っていた人形を、事故の後にどこかで見失ったと、お母さんが泣いていたのを覚えています」
私の背筋に冷たいものが走った。
「その子は、よく夜中に一人で廊下を歩き回っていました。お母さんが深夜勤務で、一人で留守番をすることが多かったんです。寂しくて、近所の部屋のドアを叩いて回ることもありました」
すべてが繋がった。深夜のノック、子供の手形、泣き声。それは五年前に亡くなった子供が、今でも寂しさから誰かを探し続けているのだった。
「人形を返してあげましょう」拓也が言った。
その夜、私たちは人形を玄関前に置いて待った。2時になっても、ノックは聞こえなかった。代わりに、微かな足音が廊下を遠ざかっていくのが聞こえた。まるで、やっと安らぎを見つけた子供が、静かに去っていくかのように。
翌朝、人形は消えていた。そして、ドアの手形も綺麗に消えていた。
それ以来、深夜のノックが聞こえることはなくなった。しかし、時々夜中に、廊下から微かな笑い声が聞こえることがある。今度は泣き声ではなく、幸せそうな子供の笑い声だった。
きっと、あの子は自分の大切な人形と一緒に、ようやく安らかに眠りについたのだろう。私たちはそう信じて、今日も静かな夜を過ごしている。