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出てこない缶

公園の自動販売機

深夜一時過ぎ、美咲は図書館から重い足取りで帰路についていた。明日の卒論発表を控え、準備に追われて終電を逃してしまったのだ。夜道を一人で歩くのは不安だったが、タクシー代をケチってしまった自分を恨みながら、普段より早足で歩いていた。

住宅街の中にある小さな公園の前を通りかかった時、喉の渇きを覚えた。緊張と集中で、水分補給を忘れていたのだ。公園の入り口近くに、古い自動販売機がぽつんと立っているのが見えた。街灯の光が薄っすらと照らすその機械は、昼間見る時よりもどこか不気味な印象を与えた。

美咲は財布から百円玉を取り出し、お茶のボタンを押した。機械の中でモーターが唸り、ガタンという音がした。しかし、取り出し口には何も落ちてこない。美咲は首をかしげ、もう一度ボタンを押してみた。再び同じ音がするが、やはり缶は出てこなかった。

「故障かな…」

美咲は取り出し口の前にしゃがみ込み、中を覗き込んだ。街灯の光が微かに差し込む奥は、思ったより深く、闇が広がっていた。缶が引っかかっているのかもしれないと思い、手を伸ばしてみたが、何も触れることができなかった。

その時、奥の方で何かが動いたような気がした。

美咲は身を乗り出し、さらに深く覗き込んだ。すると、闇の奥から、二つの光る点がこちらを見つめていることに気づいた。最初は機械の内部の電気部品だと思ったが、その光は規則的に点滅していた。まるで、まばたきをしているように。

「え…?」

美咲の心臓が激しく鼓動し始めた。それは確実に目だった。人間の目のような大きさで、湿った光を放ちながら、じっとこちらを見つめている。美咲は慌てて後ずさりしようとしたが、足がもつれて転んでしまった。

その瞬間、取り出し口から細い腕のようなものがにょろりと伸びてきた。

美咲は悲鳴を上げながら立ち上がり、全速力で走り出した。後ろを振り返ると、自動販売機から何本もの細い腕が伸び、空中でうねうねと蠢いているのが見えた。美咲は泣きながら走り続け、ようやく自宅のマンションに辿り着いた。

その夜、美咲は一睡もできなかった。あの光る目と、ぬるぬるとした感触の腕の記憶が頭から離れなかった。翌日、恐る恐る昼間にその公園を通りかかったが、自動販売機は普通に動いているようだった。他の人が普通に飲み物を買っているのを見て、美咲は自分の見たものが幻覚だったのかもしれないと思い始めた。

しかし、その日の夜、ニュースで衝撃的な報道があった。

「昨夜、市内の公園で女子大生が行方不明になりました。防犯カメラの映像では、被害者が公園内の自動販売機の前で何かを見つめた後、突然姿を消しています。現場には被害者の靴だけが残されており…」

美咲の血の気が引いた。テレビに映る公園は、まさに昨夜自分が立ち寄った場所だった。そして、防犯カメラの映像に映る女性は、まるで自分の姿と重なって見えた。

翌朝、美咲は勇気を振り絞ってその公園に向かった。昼間の明るい陽射しの中で、自動販売機は何の変哲もない普通の機械に見えた。美咲は百円玉を入れ、昨夜と同じお茶のボタンを押した。

ガタンという音がして、今度は正常に缶が落ちてきた。美咲はほっとため息をついた。しかし、缶を手に取った瞬間、その重さに違和感を覚えた。中身が入っているはずなのに、妙に軽いのだ。

缶を振ってみると、中で何かがカサカサと音を立てた。液体の音ではない。美咲は震える手でプルタブを開けた。

缶の中から転がり出てきたのは、小さな目玉だった。人間の目玉が、いくつも缶の中に詰まっていた。そのうちの一つが、美咲の顔を見上げてゆっくりとまばたきをした。

美咲は缶を落とし、再び走り出した。後ろから、自動販売機の取り出し口が大きく開いて、まるで口のように笑っているような音が聞こえてきた。

実は、この自動販売機は三十年前に設置されたものだった。設置直後から、夜中に一人で近づく人が時々行方不明になるという噂があったが、昼間は正常に動くため、撤去されることはなかった。機械の奥には、人間を餌とする異形の生物が住み着いており、夜中に獲物を待ち続けていたのだ。

美咲が見た目は、すでに捕らえられた人々の目だった。そして、あの日の夜、もし美咲が数秒でも長く覗き込んでいたら、彼女もまた自動販売機の中に引き込まれ、次の獲物を待つ目玉の一つになっていたに違いない。

美咲は引っ越しを決意した。しかし、新しい住まいの近くにも、同じメーカーの古い自動販売機を見つけた時、彼女は気づいた。あの化け物は、夜中に自動販売機から自動販売機へと移動している可能性があることを。

今夜も、どこかの街角で、古い自動販売機が獲物を待っている。お金を入れても缶が出てこない時は、決して中を覗き込んではいけない。なぜなら、覗く者は、覗かれる者でもあるのだから。