放課後の美術室に、かすかな夕日が差し込んでいた。廊下を行き交う生徒たちの声も遠ざかり、校舎全体が静寂に包まれ始める時間帯だった。
「もう少しで完成なんだけどな…」
三年生の山田咲は、イーゼルに立てかけたキャンバスを見つめながら、小さくため息をついた。卒業制作として取り組んでいた自画像は、ほぼ完成に近づいていたが、どうしても頬の赤みが思うように表現できずにいた。
咲は美術部に所属していたが、最近は部員も少なく、放課後一人で制作に没頭することが多かった。今日も例外ではなく、他の部員たちは既に帰宅し、美術室には彼女一人だけが残っていた。
「やっぱり赤い絵の具が足りないかな」
咲は立ち上がり、教室の隅に置かれた共用の絵の具棚に向かった。そこには様々な色のチューブが整然と並んでいる。彼女は一番奥にある真紅の絵の具を手に取ろうとして、ふと手を止めた。
昨日確認した時、その赤い絵の具はほぼ満タンだったはずなのに、今見ると明らかに三分の一ほど減っている。
「あれ?誰か使ったのかな?」
咲は首をかしげた。美術部の部員は現在五人しかおらず、全員顔見知りだ。それに、今日は誰も美術室に来ていないはずだった。
疑問に思いながらも、咲は残った絵の具をパレットに絞り出し、制作を続けた。しかし、どうにも集中できない。時折振り返って絵の具棚を確認してしまう自分がいた。
一時間ほど経った頃、咲は再び絵の具を取りに行った。そして愕然とした。さっきまで三分の一残っていたはずの赤い絵の具が、今度は半分以下にまで減っているのだ。
「そんな、ばかな…」
咲の背筋に冷たいものが走った。この一時間、誰も美術室には入ってきていない。扉の開閉音は必ず聞こえるし、廊下を歩く足音だって分かるはずだ。それなのに、なぜ絵の具だけが勝手に減っているのか。
恐る恐る絵の具棚の周りを調べてみると、床に小さな赤い滴が数滴落ちているのを発見した。まるで絵の具が自然に滴り落ちているかのように。
「先生に相談した方がいいかな…」
咲は震える手で携帯電話を取り出したが、既に午後六時を回っており、先生方はとうに帰宅している時間だった。
その時、美術室の奥から微かに音が聞こえた気がした。咲は息を止めて耳を澄ませた。何かを擦るような、かすかな音。まるで筆でキャンバスに絵の具を塗っているような…。
「誰かいるの?」
咲の声は美術室に響いたが、返事はない。ただ、その音は確実に続いている。音の方向を辿っていくと、美術室の一番奥、普段は使われていない古いイーゼルの陰からその音が聞こえてくることが分かった。
近づいてみると、そこには誰もいなかった。しかし、床には先ほどよりも多くの赤い絵の具が滴り落ちており、奇妙なことに、それらは完全に乾いていた。まるで随分前から滴り続けていたかのように。
咲は急いで美術準備室に駆け込み、過去の部活動記録を探し始めた。何か手がかりがあるはずだと直感していた。古いファイルを次々とめくっていくと、三年前の記録に気になる記述を見つけた。
『美術部員・田中雄一君(二年)が突然登校しなくなる。最後に目撃されたのは放課後の美術室。制作途中の自画像を残したまま行方不明となる』
咲の手が震えた。田中雄一という名前に覚えがあった。確か、美術室の隅に置かれている古い作品の中に、彼の名前が書かれたものがあったはずだ。
慌てて美術室に戻り、埃をかぶった作品を探してみると、すぐに見つかった。『田中雄一作 自画像(未完成)』と書かれたプレートが貼られたキャンバス。
そのキャンバスを見た瞬間、咲は息を呑んだ。
描かれているのは確かに少年の自画像だったが、顔の部分だけが異様に赤く塗られていた。それも、絵の具で塗ったというよりは、何かもっと生々しいもので…。そして、その「赤」は今でも乾いておらず、ゆっくりと下に向かって滴り続けているのだった。
咲は慌ててその絵を元の場所に戻そうとした時、背後から声がした。
「やっと見つけてくれたんだね」
振り返ると、そこには青白い顔をした少年が立っていた。制服こそ少し古いデザインだったが、間違いなく高校生だった。そして彼の頬から、真っ赤な液体がゆっくりと滴り落ちている。
「君が田中雄一君…?」
少年は悲しそうに微笑んだ。
「僕は自画像を完成させようとしていた。でも、どうしても血の色を再現できなくて…。それで、本物を使うことにしたんだ。最初は少しだけのつもりだった。でも、一度始めると止められなくて…」
咲は恐怖で声も出なかった。少年の足元には、赤い絵の具…いや、血が小さな水たまりを作っている。
「でも、一人じゃやっぱり完成できなかった。だから、誰かに見つけてもらいたくて、絵の具を使って合図を送り続けていたんだ」
少年は咲の肩に手を置いた。その手は氷のように冷たかった。
「一緒に完成させてくれる?僕の自画像を」
咲は必死に首を振ったが、体が動かない。少年の瞳が、だんだんと赤く染まっていく。
「大丈夫。痛いのは最初だけだから」
その時、美術室の扉が勢いよく開かれた。
「山田さん!大丈夫ですか!」
美術の田所先生が息を切らして駆け込んできた。先生の姿を見た瞬間、少年の姿はすっと消えてしまった。
「先生…」
咲は泣きながら先生に駆け寄った。
「近所の方から、美術室に人影が見えるって連絡があったんです。心配になって戻ってきたんですが…一体何があったんですか?」
咲は震え声で今までの出来事を話した。最初は半信半疑だった田所先生も、床に残された大量の血痕と、田中雄一の未完成の自画像を見て、事の重大さを理解した。
後日、警察の調査により、美術室の床下から田中雄一の遺体が発見された。死因は失血死。彼は自分の血を絵の具代わりに使って自画像を描き続け、そのまま息絶えていたのだった。
彼の自画像は現在、学校で厳重에保管されている。そして不思議なことに、咲が事件を発見した日を境に、絵から血が滴ることはなくなったという。
それから一年後、咲は無事に高校を卒業し、美術大学に進学した。しかし、今でも赤い絵の具を見ると、あの夜のことを思い出してしまう。そして時折、キャンバスに向かっている時、背後から微かに聞こえる筆音に、ぞっとするのだった。
完成することのなかった自画像の呪縛は、果たして本当に解けたのだろうか。