午後11時32分。羽田発新千歳行きの最終便は、高度1万メートルの夜空を静かに滑っていた。
田中は窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。出張の疲れが重く肩にのしかかり、機内の薄暗い照明が心地よく感じられる。隣の席は空いており、静寂に包まれた機内で彼は一人の時間を過ごしていた。
眼下に広がる雲海は月明かりに照らされ、まるで綿菓子のように柔らかく見える。普段なら美しいと感じるはずの光景も、今夜はなぜか不気味に映った。雲の切れ間から見える地上の明かりは、遠すぎてほとんど見えない。ここは完全に空の世界だった。
ふと、田中は窓の外に奇妙な影を見つけた。
最初は雲の形が作り出した錯覚だと思った。しかし、その影は明らかに人の形をしていた。手足があり、頭があり、胴体がある。そして何より不自然だったのは、その影が飛行機と同じ速度で移動していることだった。
「まさか…」
田中は目を擦った。疲れからくる幻覚に違いない。高度1万メートルの空中に人がいるはずがない。しかし、目を開けると、その人影はまだそこにいた。今度は少し近づいているように見えた。
人影は古いスーツを着ているようだった。顔は見えないが、手足の動きから男性のようだ。そして驚くべきことに、その人影は空中を歩いているかのように見えた。重力を無視して、まるで透明な床があるかのように。
田中の心臓が激しく鼓動し始めた。これは現実なのか、それとも悪夢なのか。彼は周りを見回したが、他の乗客たちは皆眠っているか、読書に夢中になっている。誰も窓の外を見ていない。
「あの…すみません」
田中は通路側に座っていた中年の女性に声をかけようとしたが、彼女はイヤホンをして映画を見ている。振り返ることもしなかった。
再び窓に目を向けると、人影はさらに近づいていた。今度ははっきりと顔が見える距離まで来ている。しかし、その顔は…顔ではなかった。のっぺらぼうのような、何の表情もない平坦な表面があるだけだった。
田中は息を詰めた。これは確実に幻覚だ。ストレスと疲労が引き起こした幻覚に違いない。しかし、その人影の存在感はあまりにもリアルだった。
そのとき、人影が動いた。ゆっくりと手を上げ、田中の方向を指差した。そして、その指先が飛行機の窓に向かって伸びてきた。
「やめろ…」
田中は小さく呟いた。しかし、人影は構わず近づいてくる。その顔のない顔が、窓のすぐ外まで来た。そして…
コツコツコツ。
窓を叩く音が聞こえた。
田中は椅子に身を押し付けた。これは幻覚ではない。音が聞こえるということは、これは現実だ。しかし、高度1万メートルで、飛行機の外に人がいるなんて…
コツコツコツ。コツコツコツ。
ノックは続いた。リズミカルで、まるで来客を知らせるかのような丁寧な音だった。人影は窓の向こうで微動だにせず、田中を見つめている。いや、顔がないのに「見つめている」と感じるのが不思議だった。
「誰か…誰か気づいて…」
田中は必死に周りを見回した。しかし、機内の誰もがその音に気づいていないようだった。エンジン音にかき消されているのだろうか。それとも、この音は田中にしか聞こえないのだろうか。
コツコツコツ。コツコツコツ。
ノックは次第に激しくなった。人影の手が窓を叩く度に、窓ガラスが微かに振動しているのが見える。田中は恐怖で体が震えていた。もしもこの窓が割れたら…高度1万メートルで与圧が失われたら…
そのとき、機内アナウンスが流れた。
「お客様にお知らせいたします。現在、機体に軽微な振動が発生しております。安全上問題はございませんが、念のため点検を行います。お客様にはご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちください」
機内がざわめいた。乗客たちが不安そうに周りを見回している。しかし、誰も窓の外の人影には気づいていない。
田中は絶望した。この振動は人影が窓を叩くことで起こっているのだ。しかし、誰も信じてくれないだろう。
コツコツコツ。コツコツコツ。
ノックは止まらない。人影は窓に顔を押し付けるようにして、田中を見つめ続けている。その顔のない顔に、なぜか悲しみのような感情を感じた。
「何が…何が欲しいんだ…」
田中は震え声で呟いた。すると、人影がゆっくりと口を開けた。いや、口らしきものを開けた。そして、無音のまま何かを言っているようだった。
田中は必死に口の動きを読もうとした。しかし、窓ガラス越しでは何を言っているのかわからない。
そのとき、人影が突然動きを止めた。ノックも止んだ。機内は再び静寂に包まれた。
「振動は収まったようです。ご心配をおかけしました」
機内アナウンスが再び流れた。しかし、田中の恐怖は終わらなかった。人影はまだそこにいる。今度は何かを持っているようだった。
それは…新聞だった。
人影は新聞を広げ、田中に見せた。月明かりで照らされた新聞の見出しが読める。
「羽田発新千歳行き便、消息不明。乗客乗員189名の安否不明」
田中の血が凍った。日付を見ると、今日の日付だった。いや、正確には昨日の日付だった。時刻は午前0時を回っている。
「そんな…まさか…」
田中は窓の外を見た。人影はもういなかった。代わりに、無数の人影が雲海の上に立っていた。男性、女性、子供、老人…様々な年齢の人々が、皆同じように顔がなく、皆同じように田中を見つめていた。
そして、田中は気づいた。彼らの服装が全て違う時代のものだということに。古いスーツ、和服、軍服、現代の服…まるで異なる時代から集められた人々のようだった。
機内アナウンスが再び流れた。しかし、今度は聞き覚えのない声だった。
「乗客の皆様、お疲れ様でした。当機は予定通り、最終目的地に向かっております。窓の外の景色をお楽しみください。まもなく、皆様も私たちの仲間入りです」
田中は振り返った。機内を見回すと、乗客たちが皆、同じ方向を向いていた。皆、窓の外を見ている。そして、彼らの顔も…
顔がなかった。
田中は鏡のように反射する窓ガラスに自分の顔を映した。そこには、のっぺらぼうの顔があった。
コツコツコツ。
今度は、田中が窓を叩いていた。雲海の上に立つ新しい乗客に向かって、歓迎のノックを送っていた。
羽田発新千歳行きの最終便は、今夜も高度1万メートルの空を飛び続けている。新しい乗客を迎えるために。