「また、いるな」
田中拓海は毎朝六時十分発の電車に乗るため、新宿駅の南口改札を通り抜ける。運転士見習いとして働き始めてから半年、この時間帯はいつも決まった人々が行き交う。サラリーマン、学生、清掃員。みんな急ぎ足で階段を昇り降りしている。
だが、一人だけ違う女性がいた。
改札から地上へと続く階段の中腹で、毎日同じ時間に立ち止まっている女性。年齢は二十代後半だろうか、長い黒髪を肩まで垂らし、薄いベージュのコートを着ている。彼女は決まって階段の十三段目に立ち、手すりに軽く手を添えながら、じっと下を見つめていた。
最初は具合が悪いのかと思った。しかし、一週間、二週間と同じ光景が続くうちに、拓海は妙な違和感を覚えるようになった。彼女の周りだけ、なぜか人の流れが止まるのだ。急いでいるはずの通勤客たちが、彼女の前で自然と歩みを緩める。まるで見えない壁があるかのように。
ある朝、いつものように階段を昇りながら、拓海は彼女の横を通り過ぎようとした。その時、彼女がゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
その瞬間、拓海の背筋に氷のような冷たさが走った。女性の瞳は深い黒で、まるで底なし沼のように何かを吸い込もうとしているかのようだった。彼女の唇が微かに動いた。何かを呟いているようだが、駅の雑音にかき消されて聞こえない。
拓海は慌てて視線を逸らし、足早に階段を昇った。振り返ることはできなかった。
その日から、拓海の身の回りで小さな不幸が続くようになった。
まず、アパートの隣人が深夜に騒音を立てるようになった。壁を叩く音、何かを引きずる音、そして時々聞こえる女性の泣き声。大家に相談したが、隣の部屋には誰も住んでいないという。
次に、職場での研修中にミスが重なった。信号の見落とし、ブレーキのタイミングの誤り。指導員は首を傾げながら「君、最近集中力が散漫だね」と言った。
そして、恋人の美咲との関係もギクシャクし始めた。理由もなく口論になり、些細なことで喧嘩を繰り返すようになった。
「最近のあなた、何だか変よ」美咲は心配そうに言った。「いつもぼーっとしてるし、夜中に寝言で誰かの名前を呼んでるの」
「誰の名前?」
「聞き取れないの。でも、女の人の名前みたい」
拓海は驚いた。自分では何も覚えていなかった。
不安になった拓海は、職場の先輩である山田に相談した。山田は五十代のベテラン運転士で、この路線で二十年以上働いている。
「新宿駅の南口階段?」山田は眉をひそめた。「ああ、あそこか。実は昔から噂があるんだよ」
「噂?」
「十年ほど前、あの階段で事故があったんだ。若い女性が階段から転落して亡くなった。それ以来、時々目撃談があるんだよ。階段の中腹で立ち止まっている女性の姿を見るって」
拓海は息を呑んだ。
「でも、それだけじゃない」山田は声を潜めた。「その女性と目が合った人間は、必ず不幸に見舞われるって言われてるんだ。最初は小さなことから始まって、だんだんエスカレートしていく。そして最後は…」
「最後は?」
「同じように階段から転落して死ぬんだよ」
拓海の顔は青ざめた。
「馬鹿らしい話だと思うか?」山田は真剣な表情で続けた。「でも、実際に三人ほど、あの階段で亡くなってるんだ。全員、事故の前に『階段の女性』を見たって証言がある」
その夜、拓海は眠れなかった。隣の部屋からは相変わらず奇妙な音が聞こえ、時々、女性の泣き声が混じる。だが今度は、その声が自分の名前を呼んでいるような気がした。
「拓海…拓海…」
翌朝、拓海は別のルートで出勤しようと思った。しかし、電車の遅延で結局いつもの道を通ることになった。恐る恐る改札を抜けると、やはり彼女はそこにいた。
今度は、彼女の方から拓海を見つめていた。
「お前も、私と同じになるのよ」
確かに、そう聞こえた。
拓海は全身に鳥肌が立った。周りの人々は何も気づいていない。彼らには彼女が見えていないのだろうか。
その日、拓海は調べてみることにした。図書館で新聞の縮刷版を漁り、十年前の事故について調べた。
記事は小さく扱われていた。「新宿駅構内で転落事故、女性死亡」
被害者の名前は佐藤綾子、二十八歳。記事によると、彼女は階段の中腹で足を滑らせて転落し、頭を強打して即死したという。だが、不可解なことに、事故現場に彼女の荷物が散乱していたにも関わらず、財布だけが見つからなかった。
さらに調べると、綾子には交際していた男性がいたことが分かった。その男性は事故の数日前から綾子を付け回していたという目撃証言があった。ストーカー行為である。
しかし、事故当日、その男性は完璧なアリバイがあった。会社の同僚たちと飲み会に参加していたのだ。
拓海は背筋が寒くなった。綾子は、自分を苦しめた男性への復讐を果たせずに死んだのではないか。そして今、同じような境遇の男性を探しているのではないか。
その時、拓海の携帯電話が鳴った。美咲からだった。
「拓海、お疲れ様。今日も遅いの?」
「ああ、ごめん。もう少しで終わる」
「そう。気をつけて帰ってきてね。最近、あなたのアパートの周りで変な女性が徘徊してるって近所の人が言ってたから」
拓海は凍りついた。
「どんな女性?」
「長い黒髪で、ベージュのコートを着てるって。夜中に建物の周りをうろついてるらしいの。もしかして、あなたの元カノとか?」
拓海は電話を切った。手が震えていた。
彼女は現実世界に現れ始めていた。
その夜、拓海は美咲の家に泊まることにした。しかし、深夜二時頃、美咲の部屋の窓を叩く音で目が覚めた。
カーテンの隙間から外を覗くと、街灯の下に彼女が立っていた。綾子が。
彼女は拓海を見つめながら、微笑んでいた。その笑顔は、まるで獲物を見つけた獣のようだった。
翌朝、拓海は決意した。このままでは美咲にも危険が及ぶ。どうにかして綾子を止めなければならない。
彼は綾子の墓を探し出し、そこを訪れた。墓石には「佐藤綾子」と刻まれ、供えられた花は枯れていた。
「綾子さん」拓海は墓石に向かって話しかけた。「僕は、あなたを苦しめたあの男性じゃない。僕に何をしても、あなたの復讐は果たせない」
風が吹き、枯れ葉が舞い散った。
「あの男性がどうなったか、知りたいんでしょう?」
拓海は図書館で調べた資料を墓石の前に置いた。綾子の事故から三年後、彼女をストーカーしていた男性は酒に溺れ、肝臓を悪くして死んでいた。
「彼はもう、あなたの苦しみを味わって死んだんです。だから、もう他の人を巻き込まないで」
その時、拓海の背後で足音が聞こえた。振り返ると、綾子が立っていた。
「知ってるわ」彼女は言った。「でも、私はもう止められない。一度始めたら、終わらない。それが、私たちの運命なの」
「私たち?」
綾子は階段で転落した人々の名前を挙げ始めた。彼女の後に続いて死んだ三人の男性たち。
「彼らは今、私と同じ場所にいるの。そして、あなたも soon join us」
拓海は理解した。これは復讐ではなく、呪いだった。綾子自身も、この連鎖から逃れられずにいるのだ。
最後の朝、拓海は覚悟を決めて新宿駅に向かった。改札を抜け、例の階段を昇る。
綾子はいつもの場所に立っていた。だが今回は、彼女の隣に他の人影も見えた。以前に死んだ男性たちだろう。
「拓海…」綾子が手を差し伸べた。
その時、拓海は気づいた。階段の手すりに、小さな文字が刻まれているのを。
「ここで止めろ」
それは、最初に死んだ男性が残したメッセージだった。
拓海は綾子の手を取らず、代わりに大声で叫んだ。
「誰か、助けて!階段に霊が出る!」
駅員や通行人が集まってきた。拓海は憑りつかれた人間として扱われ、病院に運ばれた。
だが、それが彼の救いだった。
病院のベッドで、拓海は山田から聞いた話を思い出していた。呪いを断ち切る方法は一つ。自分から周囲に助けを求め、正気を失ったと思われることで、霊的な繋がりを断つのだ。
三ヶ月後、拓海は病院を退院した。新宿駅の階段を通ることはもうなかった。転職し、別の路線で働き始めた。
美咲との関係も修復され、二人は結婚を約束した。
しかし時々、夢の中で階段の光景を見ることがある。綾子が今も、新しい獲物を探して階段に立っているのを。
そして拓海は知っている。いつか、誰かがまた彼女と目を合わせるであろうことを。
呪いは、決して終わらない。
ただ、次の人に引き継がれるだけなのだ。