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冷蔵庫のメモ

冷蔵庫とメモ

麻衣が会社から疲れ切って帰宅したのは、いつものように夜の十時を回っていた。IT企業の事務職として働く彼女にとって、残業は日常茶飯事だった。二十六歳になったばかりの麻衣は、両親の反対を押し切って一人暮らしを始めてから三年が経つ。築十五年のマンションの2DKの部屋は決して広くはないが、自分だけの空間として彼女は満足していた。

その夜も、麻衣は玄関で靴を脱ぎながら深いため息をついた。電気をつけて、いつものようにキッチンへと向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとしたとき、ふと目に留まったものがあった。

冷蔵庫のドアに、黄色い付箋が貼られている。

「牛乳は飲まないで」

そう書かれた文字は、明らかに自分の筆跡ではなかった。もっと丸みを帯びた、子供のような文字だった。麻衣は首をかしげた。こんなメモを貼った覚えはない。そもそも、この部屋に出入りするのは自分だけのはずだ。

管理人が何かの用事で入ったのだろうか。でも、なぜ牛乳について警告するような内容なのか。麻衣は冷蔵庫を開けて確認した。確かに牛乳のパックが入っている。昨日買ったばかりの、まだ開封していない牛乳だった。賞味期限を見ると、まだ一週間も余裕がある。

「変なの」

麻衣は付箋を剥がして、ゴミ箱に捨てた。きっと誰かのいたずらか、あるいは前の住人が残していったものがたまたま今日剥がれて落ちたのを、掃除婦が適当に貼り直したのかもしれない。

翌日の朝、麻衣は少し早めに起きて朝食を作ることにした。パンを焼いて、コーヒーを淹れ、そして牛乳でシリアルを食べようと冷蔵庫を開けた。牛乳のパックを手に取ったとき、昨夜の付箋のことを思い出したが、すぐに首を振った。そんな馬鹿げたことを気にしている場合ではない。

牛乳は普通に美味しかった。何の問題もなかった。

その日の仕事中も、麻衣は時々あの付箋のことを思い出していたが、特に体調に変化はなかった。昼食も夕食も普通に食べ、いつものように残業をして帰宅した。

夜中の二時頃、麻衣は突然音で目を覚ました。

コトッ、コトッ、コトッ。

規則正しい音が、キッチンの方から聞こえてくる。最初は冷蔵庫のモーター音かと思ったが、違った。何かがキッチンの床を叩くような、木製のものが落ちるような音だった。

麻衣は息を殺して耳を澄ました。音は続いている。確実にキッチンから聞こえてくる。泥棒だろうか。でも、泥棒がこんなに規則正しく音を立てるだろうか。

勇気を出して寝室から出ると、廊下の電気をつけた。音は止まった。キッチンに向かい、恐る恐る電気をつける。

何もなかった。

キッチンはいつもと同じ状態だった。冷蔵庫も、シンクも、調理台も、すべて異常はない。麻衣は首をかしげながら、念のため冷蔵庫の中を確認した。牛乳のパックは昨日と同じ場所にある。他の食材も特に変わったところはない。

「気のせいかな」

麻衣はそう呟いて寝室に戻った。しかし、布団に入ってからもなかなか眠れなかった。あの音は確実に聞こえていた。幻聴ではない。

翌朝、麻衣が起きて朝食の支度をしようとキッチンに向かったとき、再び冷蔵庫に付箋が貼られているのを発見した。

今度は赤い付箋だった。

「次はお前の番」

麻衣の背筋に冷たいものが走った。昨日の黄色い付箋と同じ、丸い子供のような文字だった。しかし、内容が明らかに脅迫めいている。麻衣は慌てて部屋中を見回した。誰かが侵入した形跡はないか、窓や玄関の鍵は壊されていないか確認したが、すべて正常だった。

「誰かが合鍵を持っているの?」

麻衣は管理会社に電話をかけた。しかし、管理人は部屋に入った覚えはないと言う。合鍵も管理会社が一本持っているだけで、他には渡していないとのことだった。

その日、麻衣は会社を早退して鍵屋を呼んだ。ドアの鍵をすべて交換してもらった。これで安心だと思った。

しかし、その夜も同じ時刻に音が聞こえた。

コトッ、コトッ、コトッ。

今度は麻衣は恐怖で動けなかった。鍵を交換したのに、まだ誰かが家の中にいるのだろうか。それとも、最初から家の中に隠れていたのだろうか。

音は約十分間続いて止んだ。麻衣は朝まで眠れなかった。

翌朝、予想通り冷蔵庫には新しい付箋が貼られていた。今度は青い付箋で、「もうすぐだ」と書かれていた。

麻衣はもう限界だった。警察に電話をかけようとしたが、何と説明すればいいのか分からない。付箋を貼られただけで、実害はない。警察も取り合ってくれないかもしれない。

その時、麻衣は冷蔵庫の後ろから小さな音を聞いた。何かが落ちたような音だった。冷蔵庫を少し前に引き出してみると、そこには小さな黒い箱のようなものが落ちていた。

それは小型のレコーダーだった。

麻衣は震える手でレコーダーを拾い上げた。再生ボタンを押すと、自分の声が聞こえてきた。

「牛乳は飲まないで」 「次はお前の番」 「もうすぐだ」

それは紛れもなく麻衣自身の声だった。しかし、彼女にはそんなことを録音した記憶がまったくない。

レコーダーを調べていると、中から小さな紙切れが出てきた。そこには病院の診察券のようなものが入っていた。

「睡眠時遊行症(夢遊病)の診断について」

麻衣は愕然とした。自分が夜中に無意識のうちに起き上がり、冷蔵庫にメモを貼り、音を立てていたのだ。牛乳への警告も、脅迫めいたメモも、すべて自分が書いたものだった。

しかし、なぜ牛乳について警告したのか。麻衣は震えながら冷蔵庫を開けて牛乳のパックを取り出した。パックの底を見ると、小さく「乳糖不耐症の方は注意」というシールが貼られていた。

麻衣は昔から軽い乳糖不耐症だった。牛乳を飲むと腹痛を起こすことがあったが、最近は忙しさでそのことを忘れていた。無意識の自分が、意識している自分に警告を送っていたのだ。

「次はお前の番」というメモの意味も理解できた。それは脅迫ではなく、「次は意識しているあなたの番」という意味だったのだ。無意識の自分が、意識している自分に何かを伝えようとしていた。

麻衣は安堵と恐怖が入り混じった複雑な気持ちになった。犯人は他人ではなく、自分自身だった。しかし、それは別の意味でより恐ろしいことだった。自分の知らない自分が存在し、夜中に活動していたのだ。

その日から麻衣は精神科を受診し、睡眠時遊行症の治療を始めた。薬物療法とカウンセリングにより、症状は徐々に改善していった。

しかし、時々夜中に目を覚ますと、キッチンから小さな音が聞こえることがある。そして朝になると、冷蔵庫に新しいメモが貼られていることがある。今度は「体を大切にして」とか「もっと早く寝なさい」といった、優しい内容のメモだった。

麻衣は理解した。無意識の自分は、意識している自分を守ろうとしているのだと。それは恐ろしくもあり、同時に愛おしくもあった。自分の中にもう一人の自分がいて、いつも自分を見守っているのだと。

ただし、麻衣は今でも冷蔵庫を開けるたびに少し緊張する。今日はどんなメモが待っているのだろうかと。そして、いつか本当に危険な警告のメモが現れるのではないかと、心の奥底でいつも不安を感じているのだった。