俊也は高校二年生になったばかりの春から、駅前の高級フレンチレストラン「ラ・ローズ」で皿洗いのアルバイトを始めた。家計を助けるため、そして将来の大学進学費用を貯めるためだった。
ラ・ローズは創業三十年を誇る老舗で、地元では知らない人はいない名店だった。重厚なレンガ造りの外観に、アンティークな調度品で統一された店内。夜になると暖かいオレンジ色の照明が窓から漏れ、道行く人を魅了した。
俊也の仕事は閉店後の食器洗いと簡単な清掃作業。時給は他の店より良く、週三回の勤務で月に五万円は稼げた。オーナーシェフの田村さんは厳格だが面倒見が良く、時々余った料理を持たせてくれることもあった。
働き始めて一ヶ月が過ぎた頃、俊也は奇妙なことに気づいた。閉店後、全ての客が帰り、スタッフも田村シェフも帰宅した後、店の奥から微かに料理の匂いがしてくるのだ。
最初は残り香だと思っていた。しかし、その匂いは日によって違った。ある日はローストビーフの香ばしい匂い、またある日はクリームソースの濃厚な香り。まるで誰かが今まさに料理をしているかのように鮮明で、時には皿がカチャカチャと鳴る音まで聞こえた。
「田村さん、閉店後に厨房を使う人っているんですか?」
ある日、俊也は意を決して田村シェフに尋ねた。
田村シェフの表情が一瞬強張った。
「…何かあったのか?」
「いえ、ただ、時々奥から料理の匂いがして」
「気のせいだろう。古い建物だからな、匂いが染み付いているんだ」
田村シェフはそう言って話を打ち切ったが、その表情には明らかに動揺があった。
それから数日後の夜、俊也は一人で皿洗いをしていた。いつものように奥から料理の匂いが漂ってきたが、この日は特に強烈だった。ビーフシチューの深いコクのある香りが、まるで鼻先で湯気を立てているかのように生々しく感じられた。
そして、確かに聞こえた。スプーンがお皿に当たる、小さな金属音。
俊也の手が止まった。心臓が早鐘を打つ。誰かが本当にそこにいる。
恐る恐る、俊也は洗い場から厨房の方を覗いた。厨房の電気は消えており、真っ暗だった。しかし、微かに何かの影が動いているのが見えた。
「田村さん?」
俊也は小さく声をかけたが、返事はない。ただ、スプーンの音だけが規則正しく続いている。
好奇心と恐怖が入り混じりながら、俊也はそっと厨房に足を向けた。床にきしむ音を立てないよう、つま先立ちで歩く。
厨房の入り口まで来ると、俊也は息を呑んだ。
暗闇の中で、確かに誰かがそこに座っていた。カウンターの一番奥、普段は使われない古い椅子に、人影がぼんやりと浮かんでいる。その人物は規則正しくスプーンを動かし、何かを食べているようだった。
俊也は震える手で厨房の電気のスイッチに手を伸ばした。パチン、という音と共に蛍光灯が点灯する。
そこには、見知らぬ老人が座っていた。
七十代ほどの痩せた男性で、古いスーツを着ている。顔色は青白く、頬はこけ、まるで長い間食事をしていないかのように痩せこけていた。しかし、その手は確実にスプーンを握り、目の前の皿から何かをすくって口に運んでいる。
皿を見ると、そこには確かにビーフシチューが盛られていた。湯気こそ立っていないものの、具材がしっかりと見え、ソースが艶やかに光っている。
「あ、あの…」
俊也が声をかけると、老人がゆっくりと顔を上げた。その瞬間、俊也は背筋に氷のような冷たさを感じた。
老人の目には、瞳がなかった。眼窩には深い闇が広がり、まるで穴が開いているかのようだった。しかし、その穴の奥から、俊也を見つめる強い意志のようなものが感じられた。
老人の口がゆっくりと動いた。
「…美味しい…とても美味しい…」
かすれた声が厨房に響く。老人は再びスプーンを口に運ぶ。その動作は機械的で、まるで何十年もの間同じことを繰り返しているかのようだった。
俊也は逃げ出したい気持ちと、なぜかその場に留まらなければならないという不思議な衝動に挟まれていた。老人の食事を見ていると、不思議な安らぎのようなものを感じた。まるで、とても大切なことを見ているような感覚だった。
「君は…新しいスタッフかね?」
老人が再び口を開いた。俊也は頷くことしかできなかった。
「私は宮本だ。この店の…最初の客だった」
宮本と名乗った老人は、ゆっくりとビーフシチューを食べ続けながら話した。
「三十年前、この店がオープンした日。私は一番最初の客として、ここに来た。当時の田村シェフは今よりもずっと若く、緊張していたものだ」
俊也は混乱していた。三十年前なら、田村シェフはまだ二十代だったはずだ。しかし、目の前の老人は確かにそのことを知っているようだった。
「私はその日、このビーフシチューを注文した。田村シェフの自信作だと言っていた。そして…とても美味しかった」
老人のスプーンが止まった。空になった皿を見つめている。
「しかし、私はその味を最後まで堪能することができなかった。心臓発作で、この席で息を引き取ったのだ」
俊也の血が凍りついた。
「それ以来、私はここにいる。毎晩、あの最後の一口を求めて。田村シェフは知っている。だから、彼は私のために毎晩、ビーフシチューを作り続けているのだ」
老人は立ち上がった。その体は半透明で、向こう側の壁が透けて見えた。
「だが、今夜で最後だ。君が来てくれたおかげで、私は満足できた。誰かに見てもらえた。それだけで十分だ」
老人は俊也に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう。君のおかげで、私は安らかに去ることができる」
その瞬間、厨房に暖かい風が吹き抜けた。老人の姿はゆっくりと薄くなり、やがて完全に消えた。皿もスプーンも、痕跡を残さず消え去った。
翌日、俊也は田村シェフに昨夜のことを話した。田村シェフは長い間黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「宮本さんは、この店にとって特別な人だった。開店初日に亡くなられて…それ以来、私は毎晩、彼のためにビーフシチューを作っていた。彼が成仏できるまで」
田村シェフの目には涙が浮かんでいた。
「君が彼を見送ってくれたんだな。ありがとう」
それから数日後、俊也は気づいた。閉店後の店から、もう料理の匂いはしなかった。奥からの物音も聞こえない。宮本さんは本当に安らかな場所へと旅立ったのだ。
しかし、俊也の胸には不思議な温かさが残っていた。人の想いの深さ、そして料理に込められた愛情の重さを、身をもって知ったからかもしれない。
ラ・ローズは今も営業を続けている。俊也は大学生になった今でも、時々そこでアルバイトをしている。そして時々、新しいスタッフが「奥から匂いがする」と言うことがある。しかし、それはもう宮本さんではない。きっと、この店で最期を迎えた他の誰かが、まだ心残りを抱えているのだろう。
俊也はそんな時、いつも思う。人の想いは、時として死をも超えて残り続けるものなのだと。そして、その想いに寄り添う優しさこそが、本当の供養になるのだと。