県立青山高校野球部の夜は長い。部活動の正式な時間が終わっても、レギュラーを狙う二年生の田中と山田は、毎晩のように校庭に残って自主練習を続けていた。
「今日もやるか」 「ああ、頼む」
秋の夜風が肌寒い十月のある日、いつものように二人はバッティング練習を始めた。田中がピッチャー、山田がバッターという役割だ。照明設備のない古いグラウンドは、校舎の明かりだけが頼りだった。
「そういえば、佐藤先輩の話、知ってるか?」
山田がバットを構えながら呟いた。佐藤先輩とは、三年前に交通事故で亡くなった当時の四番打者のことだった。野球への情熱は人一倍で、夜遅くまで一人でグラウンドで練習していたという伝説的な先輩だった。
「ああ、聞いたことある。でも、もう昔の話だろ」
田中は軽く答えながらボールを投げた。山田のバットが空を切る。
「いや、でもさ。部室に佐藤先輩の写真が飾ってあるじゃん。なんか、夜になると目が動くって一年生が言ってたぞ」
「バカバカしい。そんなオカルト話、信じるなよ」
しかし、その夜から奇妙なことが起こり始めた。
翌日の夜、いつものように二人が練習していると、山田が外野フライを打った。ボールは暗闇の向こう、ライトの定位置あたりに飛んでいった。本来なら、二人で取りに行かなければならない。
ところが、暗闇の中から「ナイスボール」という声が聞こえ、ボールが投げ返されてきたのだ。
「今の声、聞いた?」山田の顔が青ざめた。 「風の音だろ。誰かが残ってたんじゃないか」
田中は動揺を隠そうとしたが、心臓が激しく鼓動していた。グラウンドには確実に二人しかいなかった。
三日目の夜。今度は田中がバッターに回った。思い切り振り抜いたバットがボールを捉え、レフト方向へ大きな当たりが飛んだ。またしても暗闇の奥から、明瞭な男性の声が響いた。
「ナイスバッティング!そのスイング、キープしろよ」
今度は声だけでなく、手拍子まで聞こえた。二人は身を寄せ合った。
「おい、これヤバくない?」 「帰ろう、今日は」
しかし、翌日も翌々日も、二人は引き寄せられるようにグラウンドに向かった。声の主が気になって仕方がなかったのだ。そして毎回、外野に打球が飛ぶたびに、見えない誰かがボールを返してくれた。
「もしかして、佐藤先輩なのかな」山田が恐る恐る呟いた。 「そんなわけ…」
その時、田中の言葉を遮るように、暗闇から声が返ってきた。
「久しぶりだな、後輩たち。俺の名前を覚えててくれたのか」
二人は震え上がった。間違いない。これは人間の声だった。しかも、とても親しみやすい、先輩らしい口調だった。
「佐藤…先輩?」田中が震え声で呼びかけた。
「そうだ。毎晩お疲れさん。お前たちの練習、見させてもらってる。上達したじゃないか」
暗闇の向こうから、まるで生きているかのような返事が返ってきた。恐怖よりも不思議な安心感が二人を包んだ。
それから一週間、二人は毎晩佐藤先輩と”会話”を続けた。技術的なアドバイスをもらったり、野球談義に花を咲かせたりした。先輩の声は温かく、時には厳しく、まさに理想的な指導者だった。
「お前たち、来月の新人戦、レギュラー狙えるぞ」 「本当ですか、先輩?」 「ああ、俺が保証する。でも、油断するなよ」
二人の技術は確実に向上していた。他の部員たちも驚くほどだった。
しかし、ある夜のこと。田中がふと気づいた。
「先輩、質問があります」 「なんだ?」 「先輩は…どうして、ここにいるんですか?」
長い沈黙が続いた。風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
「それは…」
声が途切れた。そして、今まで聞いたことのない、かすれた、苦しそうな声が暗闇から漏れた。
「俺は…まだ…練習が…終わってないんだ」
二人の背筋に悪寒が走った。
「三年間…毎日毎日…一人で練習してた。でも…事故の日も…俺はここにいた。夜遅く…一人で…」
声はどんどん弱々しくなっていく。
「車のライトが…まぶしくて…ボールが見えなくて…そのまま道路に…」
田中と山田は、恐ろしい真実に気づいた。佐藤先輩は事故の夜、一人でグラウンドから帰る途中で亡くなったのだ。しかも、ボールを追いかけて道路に飛び出したのだろう。
「先輩…」
「頼む…」かすれた声が懇願するように響いた。「俺の…最後の練習に…付き合ってくれ…」
暗闇の奥から、一つのボールが転がってきた。古くて汚れた、見覚えのあるボールだった。それは三年前、佐藤先輩が使っていたものだった。
「このボールを…最後に…キャッチしてくれ…そうすれば俺は…」
二人は顔を見合わせた。恐怖と同情が入り混じった複雑な感情だった。
田中がゆっくりとボールに近づく。手に取った瞬間、ボールは氷のように冷たかった。そして、彼は振り返ると、渾身の力でボールを暗闇に向かって投げた。
ボールは夜空に弧を描いて消えていった。
「ありがとう…」
最後に聞こえた声は、安らかで、満足そうだった。そして、二度と佐藤先輩の声は聞こえなくなった。
翌朝、二人がグラウンドを確認すると、ライトの定位置に一つの古いグローブが置かれていた。それは間違いなく、佐藤先輩のものだった。グローブの横には、色褪せた紙切れが置かれている。
『後輩たちへ。君たちのおかげで、俺はやっと練習を終えることができた。新人戦、頑張れ。君たちなら絶対にレギュラーになれる。そして、夜遅くまで練習するときは、必ず二人以上でやること。一人は危険だ。ありがとう。佐藤』
田中と山田は、その手紙を大切に部室に飾った。そして約束通り、新人戦でレギュラーの座を掴んだ。
今でも二人は夜練習を続けているが、もう暗闇から声が聞こえることはない。ただ時々、風の強い夜に、グラウンドを見渡すと、ライトの定位置でグローブを構えている人影のようなものが見える気がする。
それは佐藤先輩が、後輩たちの安全を見守ってくれているのかもしれない。