携帯の画面に「圏外」の文字が点滅している。もう三十分ほど前から電波が途切れたままだ。いくら山道とはいえ、こんなに長く圏外になるのはおかしい。
「まだ着かないの?」助手席の彼女が不安そうに聞いてきた。
「もうすぐだよ。地図では、このトンネルを抜けるともう少しで温泉街に着くはずなんだ」
山奥のドライブは私の提案だった。彼女と付き合って一年。記念日のサプライズとして予約したのは、評判の良い秘湯だった。しかし、私たちが通っている道は、ナビが「最短ルート」として示したもので、狭い山道をひたすら走り続けている。
「このトンネル、なんか変じゃない?」彼女がフロントガラス越しに見えるトンネルの入口を指さした。
確かに奇妙だった。トンネルの入口は地図には載っていたが、照明が一つもない。真っ暗な穴が山の中に開いているだけだった。入口の近くには、色あせた立て札が風に揺れている。
車を止め、立て札を確認しようと外に出た。霧が立ち込め、蒸し暑い空気が肌に張り付く。
「通行禁止」と書かれていた立て札は、半分朽ちかけていた。その下には小さな文字で「1987年廃坑」と記されている。
「鉱山のトンネルだったのか」と呟きながら、車に戻った。
「どうだった?」彼女が聞いてきた。
「ちょっと古いトンネルみたいだけど、地図には普通の道として載ってる。抜ければすぐに温泉だから、行こう」
私はヘッドライトをハイビームに切り替え、おそるおそるトンネルに入っていった。
トンネルの内部は予想以上に狭く、車一台がやっと通れるほどだった。壁は粗い岩肌がむき出しで、天井からは水滴が落ちてくる。ヘッドライトの光が届く範囲は短く、先の見通しがきかない。
「このトンネル、長いね…」彼女の声には明らかな不安が混じっていた。既に五分ほど走っているが、出口は見えない。
突然、エンジンが不規則に唸り始めた。そして次の瞬間、車は完全に止まった。エンジンを再始動しようとしたが、反応がない。
「どうしたの?」彼女の声が震えていた。
「わからない…急に止まっちゃった」
車内灯を点けようとしたが、それも動かない。完全に電気系統が死んでいた。唯一、非常用の懐中電灯だけが機能した。
「ここで待とう。誰か通りかかるかもしれない」と言ったが、自分でも嘘だとわかっていた。こんな廃坑に人が来るはずがない。
「聞こえる?」彼女が突然囁いた。
耳を澄ますと、トンネルの奥から微かに音が聞こえてきた。足音のようにも、水滴の音にも聞こえる。しかし、どことなく規則的だった。
「誰かいるのかも」と言いながら、懐中電灯を手に車を降りた。
「待って、一人で行かないで!」彼女も続いて降りてきた。
トンネルの奥へ向かって歩き始めると、足音はより明確になった。しかし、懐中電灯の光が届く範囲には何も見えない。
「そろそろ戻ろう」と振り返った瞬間、懐中電灯の電池が切れた。完全な闇の中、私たちは凍りついた。
足音は止まった。静寂がトンネル内に広がる。
その時、彼女の悲鳴が闇を引き裂いた。彼女の腕を掴んでいた私の手が、空を切った。彼女がいない。
「どこにいるの!?」叫びながら、手探りで周囲を探した。
応答はなかったが、再び足音が聞こえ始めた。今度は私の周りを取り囲むように、複数の方向から聞こえてくる。
そして、闇の中から囁きが聞こえた。「ようこそ、お客さん」
冷たい手が私の肩に置かれた。振り返る勇気はなかった。
「1987年以来の、新しいお客さんだ…」
その瞬間、遠くに小さな光が見えた。出口だ。全力で走り出した。
光は徐々に大きくなり、ついにトンネルから飛び出した。振り返ると、トンネルの入口は既に崩れていた。何十年も前から誰も通っていないようだった。
携帯を確認すると、日付は一週間先に進んでいた。そして、未読メッセージが一つ。差出人は彼女だった。
「私を見つけて」
それから一年、私は毎日あのトンネルの前で彼女の名前を呼び続けている。時々、トンネルの中から誰かが応えてくるような気がするが、入る勇気はない。今日も日が暮れる。闇の中から、また囁き声が聞こえ始める。