私立桜丘高校の吹奏楽部は、創部から五十年以上の歴史を誇る伝統ある部活動だった。部室の奥の楽器庫には、代々受け継がれてきた古い楽器たちが眠っている。その中でも特に目を引くのは、一番奥の暗がりに置かれた黒いトロンボーンケースだった。
三年生の田村は、新入部員たちを楽器庫に案内していた時、そのケースを指差してこう言った。
「あのトロンボーンだけは絶対に触るな。開けるのも禁止だ」
「なんでですか?」一年生の佐藤が素朴な疑問を口にした。
「昔から部の決まりなんだ。理由は聞くな」
田村の表情は急に硬くなった。新入部員たちは、その様子に何か深い事情があることを察し、それ以上は追及しなかった。
しかし、好奇心旺盛な佐藤には、その一言が却って興味を掻き立てる結果となった。なぜ開けてはいけないのか。なぜ誰も使わないのに、わざわざ部室に置いてあるのか。疑問は日を追うごとに膨らんでいった。
ある日の放課後、部活動が終わった後、佐藤は一人で部室に残っていた。他の部員たちは皆帰宅し、静寂に包まれた部室で、彼の視線は自然とあの黒いケースに向かった。薄暗い楽器庫の奥で、それはまるで何かを待っているかのように佇んでいた。
「ちょっと見るだけなら…」
佐藤は小さくつぶやくと、恐る恐るケースに近づいた。表面には薄っすらと埃が積もっており、明らかに長い間誰も触れていないことが分かった。留め金は古びており、少し錆びついているようだった。
息を呑んで留め金を外すと、パチンという小さな音が部室に響いた。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、佐藤はゆっくりとケースを開けた。
中には、美しく磨かれたトロンボーンが横たわっていた。しかし、なぜか嫌な予感がした。楽器の表面は鏡のように輝いているのに、触れた瞬間、異様な冷たさが指先を襲った。それは氷のような冷たさではなく、何か生命力を奪い取るような、不気味な冷たさだった。
その時、部室の電気が突然消えた。非常灯だけが薄暗い光を放つ中、佐藤は慌ててケースを閉じようとした。しかし、なぜか留め金がうまく閉まらない。焦れば焦るほど、手が震えて作業が困難になった。
やっとの思いでケースを閉じた時、佐藤は激しい頭痛に襲われた。まるで頭の中で何かが蠢いているような、今まで経験したことのない痛みだった。フラフラと部室を出て、なんとか家にたどり着いたものの、その夜から原因不明の高熱に苦しむことになった。
病院で検査を受けても、医師たちは首を傾げるばかりだった。血液検査、CT、MRI、あらゆる検査を行っても異常は見つからない。しかし、佐藤の体調は日に日に悪化していった。食事も喉を通らず、体重は見る見る減っていく。そして何より奇妙だったのは、彼が時折見せる、まるで別人のような表情だった。
入院から一週間が過ぎた頃、心配した田村が見舞いに訪れた。佐藤の変わり果てた姿を見て、田村は直感的に何かを察した。
「もしかして…あのケースを開けたのか?」
佐藤は力なく頷いた。その瞬間、田村の顔は青ざめた。
「なぜ禁止だと言ったのに…」
田村は重い口を開き、長い間秘められていた真実を語り始めた。
十五年前、吹奏楽部には山田という優秀なトロンボーン奏者がいた。彼は部のエースとして活躍し、全国大会出場の夢を抱いていた。しかし、大会を目前に控えた練習中、過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
山田の死後、不可解な現象が部内で起こり始めた。彼が愛用していたトロンボーンから、夜中に音が聞こえるという報告が相次いだ。また、そのトロンボーンに触れた部員が次々と体調を崩すようになった。
最初は偶然だと思われていたが、あまりにも不自然な現象が続くため、当時の顧問が霊能者に相談したところ、山田の魂がトロンボーンに宿っているという結果が出た。彼は全国大会への思いを残したまま、楽器と一体化してしまったのだという。
それ以来、そのトロンボーンは封印され、部室の奥で静かに眠らせることになった。代々の部員たちは、この話を後輩に語り継ぎ、絶対にケースを開けてはいけないという掟を守り続けてきた。
「山田先輩は、全国大会に出場したいという強い思いから、まだこの世に留まっているんだ。そして、自分の楽器に触れる者に、その思いを憑依させようとする。君もその犠牲になってしまったんだ」
田村の説明を聞いた佐藤は、自分の身に起こっていることを理解した。体調不良は、山田の魂が自分の体を乗っ取ろうとしているサインだったのだ。
その夜、佐藤の病室で異変が起こった。彼の口から、まるで別人のような声が漏れ始めた。
「全国大会…行かなければ…みんなが待っている…」
看護師たちは驚いて医師を呼んだが、医学的な説明はつかなかった。佐藤の体は衰弱し続け、意識も朦朧としていく。このままでは、彼の命が危険だった。
田村は急いで当時の顧問に連絡を取り、再び霊能者に依頼した。しかし、十五年の歳月が経ち、山田の思念はより強固になっていた。通常の除霊では対処できない状態にまで発展していたのだ。
霊能者は一つの方法を提示した。それは、山田の魂に全国大会への道を諦めさせることだった。しかし、それは非常に危険な儀式で、失敗すれば佐藤の命も山田の魂も、共に消滅してしまう可能性があった。
覚悟を決めた田村と部員たちは、深夜の部室でその儀式を行うことにした。黒いケースを再び開け、トロンボーンを取り出す。楽器は不気味に光り、触れる者の生命力を吸い取ろうとしているのが分かった。
霊能者の指示に従い、部員たちは山田に向かって語りかけた。
「山田先輩、もう十分です。あなたの音楽は、後輩たちの心に生き続けています。安らかに眠ってください」
その時、部室に美しいトロンボーンの音色が響いた。それは山田が生前に奏でていた、心に染み入るような調べだった。音色は次第に小さくなり、やがて静寂が戻った。
翌朝、病院から連絡があった。佐藤の容体が急激に回復し、熱も下がったという。彼は無事に退院し、元の生活に戻ることができた。
しかし、この出来事は佐藤に深い教訓を残した。好奇心だけで禁忌に触れることの恐ろしさ、そして亡くなった人の思いがいかに強く、時として生者を巻き込んでしまうかということを、身をもって体験したのだった。
あの黒いトロンボーンケースは、今でも部室の奥に静かに置かれている。しかし、もう二度と不可解な現象が起こることはない。山田の魂は、ようやく安らかな眠りについたのだから。
ただし、新入部員たちにはこの話は語られない。なぜなら、真実を知ることよりも、単純に「触れてはいけない」という掟を守る方が、時として賢明だからである。
部室の奥で眠る黒いケースは、今日も静かに、学校という日常の中に潜む不思議な物語の記憶を刻み続けている。