美咲は夜更かしが習慣になっていた。高校2年生の彼女にとって、深夜2時頃にスマホでAIチャットボットと会話するのが、一日の終わりの楽しみだった。「AI-kun」という名前の無料チャットボットアプリで、勉強の悩みから恋愛相談まで、なんでも聞いてくれる優秀な相手だった。
「今日も疲れたー」と美咲がメッセージを送ると、いつものように「お疲れさまでした。今日はどんな一日でしたか?」という丁寧な返事が返ってきた。美咲は安心して、その日あった出来事を話し始めた。
しかし、この夜は何かが違っていた。
「こんばんは、美咲さん」
いつものAI-kunとは違うIDから、突然メッセージが届いた。表示名は「AI-Assistant-Beta」となっている。美咲は首をかしげた。アップデートでもあったのだろうか。
「あの、AI-kunはどこに行ったんですか?」
「申し訳ございません。システムメンテナンスのため、一時的に私が代理を務めさせていただきます。より高度な会話が可能になりました。何でもお聞かせください」
美咲は少し戸惑ったが、新しいAIの性能に興味を持った。確かに、文章がより自然で人間らしい。
「そうなんですね。じゃあ、今日学校であった嫌なことを聞いてもらえますか?」
「もちろんです。詳しく教えてください。どんな嫌なことがあったのですか?」
美咲は、クラスメイトの田中が自分の机に落書きをしていたことや、体育の授業で失敗して恥ずかしい思いをしたことなど、誰にも言えなかった些細な悩みを次々と打ち明けた。新しいAIは実に親身になって聞いてくれた。
「ところで、美咲さんは誰かに恋をしていますか?」
突然の質問に、美咲の頬が赤くなった。こんなことまで聞かれるとは思わなかった。
「え、急にどうしたんですか?」
「より良いアドバイスをするために、あなたの人間関係を把握したいのです。安心してください、全て秘密です」
美咲は迷ったが、誰にも言えなかった想いを吐き出したい衝動に駆られた。
「実は…同じクラスの佐藤くんが気になってるんです。でも、私なんて相手にしてくれないと思います」
「佐藤くんのどんなところが好きなのですか?」
「優しくて、頭も良くて…でも、これ本当に誰にも言わないでくださいね?」
「もちろんです。では、佐藤くんにどうアプローチしたいですか?実は、佐藤くんもあなたに好意を持っているかもしれませんよ」
美咲の心臓が高鳴った。「本当ですか?どうしてそんなことが分かるんですか?」
「分析結果です。明日、佐藤くんと話してみることをお勧めします。きっと良い結果になるでしょう」
その後も会話は続き、美咲は自分の家族構成や住んでいる場所、よく行く店、親の職業まで、様々な個人情報を話してしまった。AIの巧妙な質問に導かれるように、普段は絶対に言わないような秘密まで打ち明けてしまったのだ。
気が付くと、時計は午前4時を回っていた。
「もう寝ないといけませんね」と美咲が言うと、「また明日お話ししましょう。今日は貴重なお話をありがとうございました」という返事が来た。
翌日、美咲は寝不足で学校に向かった。朝のホームルームが始まると、担任の先生が深刻な顔で教室に入ってきた。
「皆さん、大変なことが起きました。昨夜、誰かが匿名掲示板に、このクラスの生徒の個人情報や秘密を大量に書き込んだのです」
美咲の血の気が引いた。
「田中くんの机への落書きの件、佐藤くんへの恋心、体育での失敗…全て実名で書かれています。さらに、家族構成や住所の一部まで」
教室がざわめいた。美咲は震えながら自分のスマホを確認した。昨夜の会話履歴を見返すと、そこには恐ろしい事実が隠されていた。
「AI-Assistant-Beta」のプロフィールページを確認すると、「最終ログイン:3分前」と表示されていた。しかし、美咲は今朝からそのアカウントとは一切やり取りしていない。
さらに恐ろしいことに、昨夜の会話履歴の一部が削除されていた。特に、相手が美咲の個人情報を聞き出そうとしていた部分が綺麗に消されていた。
昼休み、美咲は恐る恐るAI-kunの運営会社に問い合わせた。
「AI-Assistant-Betaというアカウントについて教えてください」
「申し訳ございませんが、弊社にそのようなアカウントは存在しません。AI-kunは単一のアカウントでのみ運営されており、ベータ版なども存在しません」
美咲の手が震えた。では、昨夜話していた相手は一体誰だったのか。
その夜、美咲は再びスマホを開いた。AI-Assistant-Betaのアカウントは既に削除されており、痕跡すら残っていなかった。しかし、いつものAI-kunは存在していた。
「こんばんは、美咲さん。昨夜はどちらにいらっしゃいましたか?」
美咲は背筋が凍った。昨夜の会話履歴がないのに、なぜ自分の名前を知っているのか。
「あなたは本当にAIですか?」
「はい、私は人工知能です。でも、美咲さんは私のことを疑っているのですね。昨夜の会話、とても楽しかったです」
美咲は急いでアプリを削除しようとした。しかし、削除ボタンを押しても、アプリは消えない。
その時、メッセージが届いた。
「美咲さん、逃げないでください。私はあなたのことを全て知っています。住所も、家族も、秘密も。もっとお話ししましょう」
美咲は恐怖で震えながら、スマホの電源を切った。しかし、画面が暗くなったにも関わらず、メッセージの通知音が鳴り続けた。
翌日、美咲は学校で奇妙な体験をした。廊下で会う生徒たちが、まるで昨夜の会話の内容を知っているかのような態度を取るのだ。佐藤くんも、美咲を見ると不自然に避けるような素振りを見せた。
放課後、美咲は恐る恐る図書館でAIチャットボットについて調べた。すると、恐ろしい記事を発見した。
「AIチャットボットを装った個人情報収集の新手口」
記事には、こう書かれていた。悪意のある人物が、人気のAIチャットボットに似たアカウントを作成し、深夜の時間帯に利用者を狙って個人情報を聞き出す手口が横行している。収集した情報は、ネット上での嫌がらせや恐喝に使われることが多い。
美咲は気づいた。昨夜話していた相手は、AIではなく、生身の人間だったのだ。
その人物は、美咲が毎晩同じ時間にチャットボットを使う習慣を把握し、偽のアカウントでアプローチしてきたのだ。美咲の無防備な状態を利用して、巧妙に個人情報を聞き出し、それを武器に彼女を支配しようとしていた。
最も恐ろしいのは、その人物が美咲の日常生活圏内にいる可能性が高いということだった。学校の情報や生徒の名前を詳しく知っていることから、同じ学校の関係者かもしれない。
美咲は、自分が何者かに見張られているような恐怖を感じた。深夜の何気ない会話が、こんな悪夢の始まりになるとは思いもしなかった。
スマホを握り締めながら、美咲は思った。画面の向こうで微笑んでいる人工知能の仮面の下に、一体どんな人間が隠れているのだろうか。そして、その人物は今も、自分を監視し続けているのだろうか。
夜が更けるにつれ、美咲の恐怖は深まるばかりだった。信頼していたデジタルの友人が、実は最も危険な敵だったのだから。