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公衆電話

公衆電話

八月の午後二時。アスファルトから立ち上る陽炎が、視界を歪ませていた。営業先から駅へ向かう途中、私は汗でびっしょりになったシャツを気にしながら、古びた商店街の一角を歩いていた。

この界隈は再開発から取り残されたような場所で、シャッターを下ろした店舗が目立つ。人通りもまばらで、老朽化したアーケードの隙間から容赦なく降り注ぐ日差しが、私の体力を奪っていく。

「参ったな」

額から流れる汗を拭いながら、私は日陰を求めて辺りを見回した。すると、商店街の外れにある小さな公園の脇に、古い電話ボックスがあるのが見えた。

ガラス張りの四角い箱は、明らかに昭和の遺物だった。表面は汚れで曇り、角の部分には錆が浮いている。それでも日陰には違いない。私は迷わずその中に入った。

電話ボックスの中は、外の灼熱地獄と比べれば確かに涼しかった。しかし、狭い空間に閉じ込められた空気は淀んでいて、カビ臭さが鼻につく。壁には落書きが刻まれ、床には得体の知れない汚れが点々と付着していた。

私は壁に背中を預けて一息つこうとした時、妙なことに気づいた。

受話器が外れている。

黒いダイヤル式の電話機から、受話器がぶら下がっていた。コードが床に垂れ下がり、まるで誰かが話し終えたばかりのように見える。

「変だな」

私は受話器を見つめた。誰かが使った後、きちんと戻すのを忘れたのだろうか。それとも故障で外れてしまったのか。

その時、受話器からかすかに音が聞こえた。

プツプツという雑音に混じって、何かが聞こえる。私は反射的に受話器を手に取り、耳に当てた。

「ママ、迎えにきて」

幼い子供の声だった。

私は慌てて受話器を耳から離した。心臓が激しく鼓動を打っている。何だ、今の声は。

もう一度恐る恐る受話器を耳に当てると、今度は「ツー、ツー、ツー」という通話が切れた時の音が聞こえるだけだった。

「気のせいか」

私は受話器を元の位置に戻した。暑さでおかしくなったのかもしれない。そんなことを考えながら、私は電話ボックスから出た。

外は相変わらず猛暑だったが、妙な不安感が私を包んでいた。振り返ると、電話ボックスは薄暗い影の中に佇んでいる。その光景がなぜか不気味に思えて、私は足早にその場を去った。

その日の夜、私は自宅でテレビを見ていた。時刻は午後十一時を過ぎたころだった。

突然、スマホが鳴った。

画面を見ると「非通知」の文字が表示されている。私は首をかしげながら通話ボタンを押した。

「もしもし」

しかし、相手からの応答はない。ただ、プツプツという雑音だけが聞こえる。

「もしもし、聞こえませんか?」

私がもう一度声をかけた時、それは聞こえた。

「ママ、迎えにきて」

昼間、電話ボックスで聞いた声と同じだった。幼い子供の、切ない響きを持った声。

私は慌てて通話を切った。手が震えている。偶然の一致だろうか。いや、そんなはずはない。

翌日の夜も、同じ時刻にスマホが鳴った。やはり「非通知」からの着信だった。

今度は出るまいと思ったが、呼び出し音が鳴り続ける。仕方なく出ると、また同じ声が聞こえた。

「ママ、迎えにきて」

三日目の夜も、四日目の夜も、毎晩同じ時刻に同じ声が聞こえた。私は携帯電話会社に連絡したが、「非通知の着信を拒否する設定にしてください」と言われるだけだった。

しかし、着信拒否の設定をしても、その声は届いた。まるで設定など関係ないとでも言うように。

一週間が過ぎた頃、私は気になって昼間にあの電話ボックスを見に行った。すると、電話ボックスの前に花束が置かれているのを発見した。

近くにいた老人に話を聞くと、衝撃的な事実を知った。

「ああ、あの電話ボックスかい。十年前に事故があったんだよ」

老人は悲しそうな表情を浮かべた。

「小さな女の子がね、お母さんに迎えに来てもらおうとあの電話を使ったんだ。でも、電話が繋がらなくて、何度も何度もかけ直していたらしい。その間に日が暮れて、帰り道で車に轢かれてしまった」

私の血の気が引いた。

「その子はね、事故に遭う直前まで『ママ、迎えにきて』って言いながら電話をかけていたそうだ。近所の人が聞いていたから間違いない」

老人は花束を見つめながら続けた。

「あの電話ボックス、とっくに回線は切れてるはずなんだけどね。でも時々、使われた形跡があるんだ。受話器が外れていたりしてね」

私は震え上がった。あの時、私が耳にした声は。

「その子は、まだお母さんを待っているのかもしれないねえ」

老人の言葉が、私の心に重くのしかかった。

その夜、いつものように非通知の着信があった。私は意を決して電話に出た。

「もしもし」

「ママ、迎えにきて」

いつもと同じ声。しかし今度は、私は逃げなかった。

「君のお母さんは、きっと迎えに来てくれるよ」

私は優しく言った。

「だから、もう電話しなくても大丈夫。お母さんは君のことを愛してるから」

電話の向こうが静かになった。そして、かすかに子供の泣き声が聞こえた。

「ありがとう」

小さな声でそう言うと、通話は切れた。

それ以来、非通知の着信は来なくなった。そして数日後、あの電話ボックスは撤去された。

私は今でも時々、あの古びた町角を通る。電話ボックスがあった場所には、小さな花壇が作られている。そこには季節の花が植えられ、いつも綺麗に手入れされている。

きっと、あの子も安らかに眠っているのだろう。そう信じて、私は手を合わせる。

炎天下の出来事が引き起こした恐怖は、最後には悲しい真実と、小さな魂への愛情に変わった。真昼の幻聴だと思っていたものが、実は十年間も続いていた子供の切ない願いだったのだ。

汗ばんだあの日の記憶と共に、私は彼女の声を忘れることはないだろう。