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誰にも渡さない

手紙

新しいアパートに引っ越してから一週間が経った。築四十年の古い木造二階建てだが、家賃の安さと駅からの近さに惹かれて決めた。前の住人が置いていった家具も使えるものばかりで、特に寝室にあった古いタンスは重厚感があって気に入っていた。

その日、掃除をしていて気づいた。タンスの裏側に、何かが挟まっている。埃にまみれた封筒だった。手に取ると、中に便箋が一枚入っていた。丁寧な字で書かれた文字が目に入る。

「お願いです。この手紙を読んだ人は、私の代わりにあの部屋にいてください。もう限界です。お願いします。」

最初は冗談かと思った。前の住人の悪趣味な置き土産だろう。でも、文字の震えようからは、切羽詰まった何かを感じた。

「あの部屋」とは何を指すのか。アパートには六畳の寝室、四畳半の居間、それに台所とトイレがあるだけだ。特に変わった部屋はない。

その夜、不審に思いながらも布団に入った。時計の針が午前二時を回った頃、音がした。

コツ、コツ、コツ。

規則的な音だった。寝室の壁の向こうから聞こえる。隣の部屋は確か物置として使っていた四畳半の部屋だ。足音のような、でも微妙に違う。何かが床を叩いているような音。

翌日、隣の部屋を調べてみた。特に変わったものはない。段ボール箱がいくつかと、掃除道具が置いてあるだけ。床にも異常はなかった。

しかし、その夜も同じ音が聞こえた。今度は長く続いた。コツ、コツ、コツ。まるで誰かが部屋の中を歩き回っているような音だった。

三日目の夜、音と一緒に気配を感じた。隣の部屋に確実に誰かがいる。ドアの前に立つと、中から微かに呼吸音が聞こえた。

「誰か、いるんですか?」

声をかけた瞬間、音が止んだ。静寂が戻った。ドアノブに手をかけようとしたが、なぜか躊躇した。

四日目の夜、ついに決心してドアを開けた。部屋は真っ暗だった。電気をつけると、何も変わっていない。しかし、床に足跡のような痕跡があった。埃の上に、素足の跡がくっきりと残っていた。

私は一人暮らしだ。靴下を履いて入ったはずなのに、この足跡は素足だった。しかも、私の足よりも小さい。

五日目の夜、音はしなかった。代わりに、寝室のドアの外で気配を感じた。廊下に誰かが立っている。ドアの隙間から、足音が聞こえた。でも、朝になると何もなかった。

六日目の夜、寝室にいると、隣の部屋のドアが開く音がした。足音が廊下を進む。私の部屋のドアの前で止まった。ドアノブがゆっくりと回る音がした。

「入らないで」

そう言うと、音は止んだ。しかし、ドアの向こうで誰かが立っていることは分かった。一晩中、そこにいた。

七日目の夜、ついに理解した。手紙の意味を。

「私の代わりにあの部屋にいてください」

あの部屋とは、隣の物置部屋のことだった。そして、私の代わりにそこにいてほしいというのは、私が寝室にいる間、その部屋で何かが待っているからだ。

深夜になると、隣の部屋から這い出してくる。私の部屋に来ようとする。でも、私がこの部屋にいる限り、入ってこられない。まるで、一つの部屋には一人しかいられないかのように。

そして気づいた。前の住人は、私と同じように最初は寝室で寝ていたのだろう。でも、その「何か」に疲れ果てて、最終的には隣の部屋に移ったのだ。自分があの部屋にいることで、「それ」が寝室に来ないようにするために。

手紙の続きを読み返した。裏面にも文字があった。

「でも、もう限界です。誰か代わってください。お願いします。この手紙を読んだ人が、私の代わりにあの部屋にいてくれれば、私は解放されます。」

つまり、前の住人は今でもあの部屋にいるのだ。「それ」が寝室に来ないように、ずっと見張っている。でも、疲れ果てている。だから、代わりを求めている。

八日目の夜、私は隣の部屋に入った。中には、やつれた女性が座っていた。前の住人だった。彼女は私を見ると、安堵の表情を浮かべた。

「ありがとう」

そう言って、彼女は消えた。

その瞬間、私は理解した。今度は私の番だ。私がこの部屋にいる限り、「それ」は寝室に入れない。でも、私がいなくなれば、次に住む人が標的になる。

朝になると、私は新しい手紙を書いた。

「お願いです。この手紙を読んだ人は、私の代わりにあの部屋にいてください。もう限界です。お願いします。」

手紙をタンスの裏に隠した。そして、不動産屋に連絡した。

「急に転勤が決まったので、部屋を出ることになりました。家具はそのまま置いていきますので、次の住人の方に使っていただいて構いません。」

でも、私は嘘をついた。

本当は、誰にも渡さない。この苦しみを、誰にも渡したくない。

私は隣の部屋に留まることにした。永遠に。新しい住人が来ても、私が守り続ける。前の住人が私にしてくれたように。

「それ」が寝室に入らないように、私がここにいる。

でも、時々思う。この連鎖を断ち切る方法はないのだろうか。

深夜、隣の部屋から這い出してくる音が聞こえる。私は目を閉じて、次の朝まで耐える。

誰にも、この苦しみを渡さない。

そう決めた私の隣で、新しい気配がした。振り返ると、前の住人が立っていた。

「私たちは、もう逃げられないのよ」

彼女の言葉に、私は震えた。

この部屋には、何人もの住人が溜まっていく。みんな、同じ思いで。誰にも渡さないという思いで。

でも、「それ」はまだそこにいる。

私たちが増えるほど、「それ」も強くなっていく。

そして、いつかは寝室に入り込むだろう。

新しい住人のもとへ。