「もう三時間も同じ道を走っている」と佐藤は呟いた。助手席の妻・美香は眠ったままだ。後部座席では六歳の娘・陽菜が携帯ゲームに夢中になっている。
佐藤家の夏休み旅行は、順調なはずだった。朝早く東京を出発し、山梨の温泉宿に向かう予定だった。ナビの指示通りに高速道路を降り、山道に入った。そこからが、おかしくなった。
最初は気づかなかった。山道はどこも似たように見える。しかし、同じ形の枯れ木を三度目に見た時、佐藤は不安になった。
「パパ、またあの看板通ったよ」陽菜が窓の外を指さした。確かに、「前方カーブ注意」の看板は三十分前にも通ったはずだ。
「GPS、おかしいのかな」と佐藤はナビを確認したが、画面には正常に道路が表示されている。しかし、目的地までの時間が減らない。むしろ、増えているように見えた。
「美香、起きて」佐藤は妻を揺り起こした。「道に迷ったみたいだ」
美香が目を擦りながら起き上がる。「えっ、まだ着かないの?もう三時のはずじゃ…」彼女は時計を見て言葉を詰まらせた。「まだ一時半…?時計、止まったのかな」
佐藤は自分の腕時計を確認した。一時二十八分。携帯電話も同じ時刻を示している。出発してから五時間経ったはずなのに、時間が逆行している。
「パパ、のどかわいた」陽菜が言った。美香は後ろを振り向き、水筒を手渡した。
「次の町で休もう」と佐藤は言ったが、既に一時間以上、人家の一つも見ていない。道はただ山の中を蛇行している。
さらに一時間走った。時計は一時十五分を指している。ガソリンメーターが警告灯を点滅させ始めた。
「次のガソリンスタンドどこだろう」と佐藤が言った瞬間、道の先に小さな給油所が見えた。「よかった」
しかし、近づくにつれ、違和感が増した。給油所は古く、ポンプは1970年代のものだ。看板の文字は色あせ、判読できない。それでも、選択肢はなかった。
佐藤は車を停め、降りた。誰もいない。「すみません」と声をかけたが、応答はない。仕方なく、自分でポンプを操作することにした。
その時、店舗からひょろりとした老人が現れた。「いらっしゃい」と老人は不自然な笑顔で言った。その目は笑っていなかった。
「満タンでお願いします」と佐藤は言った。老人はただ頷き、ポンプを手に取った。
「この先、町はありますか?」
老人はゆっくりと首を横に振った。「この道は一方通行だよ。戻ることはできない」
「何を言ってるんですか?来た道を戻れば東京に帰れるはずです」
老人は意味深な笑みを浮かべた。「そうかな?試してみたらどうだ」
給油が終わり、佐藤は財布を取り出した。「いくらですか?」
「代金はもう払った」と老人は言った。佐藤が混乱した顔をすると、老人は車の後部座席を見つめた。陽菜が眠っている。
「何を言ってるんですか?」佐藤は怒りを抑えきれなかった。
老人は答えず、店内に消えた。不気味さを感じた佐藤は急いで車に戻った。
「変な人だったね」と美香が言った。「陽菜、大丈夫?」美香が後ろを振り向くと、陽菜は深く眠っていた。揺り起こしても反応がない。
「病院に行こう」と佐藤は言った。ガソリンメーターを見ると、針はまだ空に近いところを指している。「おかしい、今入れたばかりなのに」
焦りながら車を発進させた佐藤。しかし前方には、来た時と同じ山道が続いている。Uターンしようとしたが、道は狭く、崖に囲まれている。
携帯電話には圏外の表示。時計は一時。時間が止まったかのようだ。
「次の曲がり角を右に行けば、高速道路に出られるはず」と美香が地図を見ながら言った。しかし、右に曲がっても、また同じ山道が続いている。
三度目の「前方カーブ注意」の看板を通過した時、佐藤は気づいた。バックミラーに映る後部座席に、陽菜の姿がない。
「陽菜!」美香が叫んだ。車を急停止させ、後部座席を確認する。確かに娘はいない。ドアはロックされたままだ。
パニックになった二人が車の周りを探し回る中、遠くからエンジン音が聞こえてきた。見覚えのある自分たちの車が、道を走ってくる。運転席には佐藤自身、助手席には美香、そして後部座席には眠る陽菜の姿があった。
「これは…」言葉にならない恐怖が佐藤を襲った。車は彼らの前を通り過ぎ、カーブの向こうに消えていった。
再び車に戻った佐藤夫妻。時計は一時。ガソリンメーターは空。そして後部座席は空のままだ。
「帰ろう」と美香が泣きながら言った。佐藤はエンジンをかけた。前方には同じ山道が果てしなく続いている。そして彼らは、また同じ「前方カーブ注意」の看板へと向かっていった。