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笑う患者

カルテ

私が総合病院の内科病棟で働き始めて三か月が経った頃のことだった。新人看護師としての慣れない業務に追われる日々の中で、一つだけ気になることがあった。

それは、夜勤の時間帯に聞こえる、奇妙な笑い声だった。

最初に気付いたのは、十月の肌寒い夜のことだった。午後十一時を回り、病棟が静寂に包まれる中、かすかに聞こえる笑い声に足を止めた。クスクスと、まるで何かおかしなことを思い出したかのような、控えめで陽気な笑い声だった。

「誰かテレビでも見てるのかな」

そう思いながら廊下を歩いていると、笑い声は312号室の方向から聞こえてくることに気付いた。312号室には、田中さんという七十代の男性患者が入院していた。胃潰瘍で入院して既に二週間が経過していたが、特に問題もなく、来週には退院予定だった。

ドアの隙間から中を覗くと、田中さんはベッドに横たわったまま、天井を見上げて静かに笑っていた。表情は穏やかで、まるで楽しい夢でも見ているかのようだった。

「田中さん、大丈夫ですか?」

声をかけると、田中さんは振り返って私を見た。その瞬間、笑い声は止んだ。

「あぁ、看護師さん。すみません、何か楽しいことを思い出してしまって」

「そうですか。でも、あまり大きな声だと他の患者さんの迷惑になりますから」

「気をつけます。申し訳ありませんでした」

田中さんは素直に謝り、すぐに眠りについた。私はその日のことを特に気に留めなかった。

しかし、それから毎夜、同じ時間帯に同じような笑い声が聞こえるようになった。いつも午後十一時過ぎから明け方にかけて、断続的に続く静かな笑い声。昼間の田中さんは至って普通で、他の患者さんたちとも談笑し、看護師である私たちにも愛想よく接してくれる好人物だった。

一週間ほど経った頃、私は先輩の山田看護師に相談してみた。

「山田さん、312号室の田中さんのことなんですが」

「田中さん?あぁ、あの優しいおじいちゃんね。どうしたの?」

「夜中によく笑い声が聞こえるんです。何か病気と関係があるのでしょうか」

山田さんは首をかしげた。

「笑い声?そんなの聞いたことないけど。私も夜勤やってるけど、田中さんは静かに寝てるわよ」

「そうなんですか…」

私は困惑した。毎晩確実に聞こえる笑い声を、他の看護師は誰も気付いていないのだろうか。

その夜、私は特に注意深く312号室の様子を見守った。午後十一時十分過ぎ、やはり笑い声が聞こえ始めた。今度は少し近づいて観察してみることにした。

ドアを静かに開け、部屋の中を覗く。田中さんは確かにベッドで横になり、天井を見つめながら笑っていた。しかし、よく見ると何かおかしかった。田中さんの目は見開かれたまま、まばたきをしていない。そして、その笑い声には感情が感じられなかった。機械的で、まるで録音されたもののように一定のリズムで繰り返されていた。

「田中さん?」

声をかけても、田中さんは反応しなかった。まるで私の存在に気付いていないかのように、ただ天井を見つめて笑い続けている。

私は背筋に寒気を感じながら、ナースステーションに戻った。そして、田中さんのカルテを詳しく調べてみることにした。

カルテを開くと、基本的な情報が記載されていた。田中太郎、七十三歳、胃潰瘍による入院。しかし、ページをめくっていくうちに、奇妙な記録を発見した。

「令和四年十月十五日 午前二時三十分 死亡確認」

私は目を疑った。今日は令和五年十月二十八日だ。つまり、カルテによると田中さんは一年以上前に死亡していることになる。

「これは間違いよね…」

私は震える手でカルテを何度も確認した。しかし、そこには確実に死亡の記録が記載されていた。死因は胃潰瘍の悪化による失血死と書かれている。

急いで電子カルテのシステムも確認してみた。しかし、そこには現在進行形で田中さんの治療記録が更新され続けていた。昨日の検査結果、今日の投薬記録、明日の検査予定まで、すべて正常に入力されている。

混乱した私は、もう一度312号室を確認しに行った。しかし、今度は笑い声は聞こえなかった。部屋の中は静寂に包まれ、田中さんは穏やかに眠っているように見えた。

翌日、私は病院の医療記録課に相談した。

「田中太郎さんのカルテの件でお伺いしたいことがあるのですが」

「田中さん?現在312号室に入院中の方ですね」

「はい。カルテに死亡記録が記載されているのですが」

記録課の職員は首をかしげながらコンピューターを操作した。

「おかしいですね。こちらのシステムでは田中さんは現在入院中で、死亡記録はありません。紙のカルテの方で何か記録ミスがあったのでしょうか」

「そうかもしれません。確認していただけますか」

しかし、記録課で保管されている紙のカルテには、死亡記録は一切記載されていなかった。私が見た死亡記録は、まるで幻だったかのように消えていた。

その夜、私は再び夜勤を担当した。今度は田中さんの正体を確かめるために、より詳しく観察することにした。

午後十一時を過ぎ、やはり笑い声が聞こえ始めた。私は312号室のドアを静かに開け、部屋の中に入った。田中さんは相変わらず天井を見つめながら笑っていた。

「田中さん、お話しませんか」

私は恐る恐る声をかけた。しかし、田中さんは反応しない。私は勇気を出して、ベッドに近づいた。

そして、田中さんの顔を間近で見た瞬間、私は絶叫しそうになった。

田中さんの顔は、まるで蝋人形のように無表情だった。目は見開かれているが、その奥には何の感情も宿っていない。そして、口元だけが機械的に動いて笑い声を発している。まるで壊れた人形のように。

「田中さん…?」

私が名前を呼ぶと、田中さんの首がゆっくりと私の方に向いた。しかし、その目は私を見ていない。どこか遠くの一点を見つめているようだった。

「楽しい…楽しい…」

田中さんは小さな声でつぶやいた。

「何が楽しいのですか?」

「死ぬのが…楽しい…」

私は凍りついた。その瞬間、田中さんの笑い声が止んだ。部屋は静寂に包まれ、ただ私の心臓の鼓動だけが響いていた。

田中さんは再び天井を見つめ、今度は涙を流し始めた。しかし、その表情は相変わらず無表情のままだった。

「助けて…助けて…」

今度は別の声が聞こえた。か細い、絶望に満ちた声だった。

私は慌てて部屋を出た。そして、その晩は一睡もできなかった。

翌朝、私は再び記録課を訪れた。今度は、一年前の患者記録を詳しく調べてもらった。

「令和四年十月十五日に死亡された田中太郎さんの記録、確かにありました」

記録課の職員は重い表情で報告してくれた。

「やはり…」

「しかし、奇妙なことがあります。この田中さんの記録では、死亡後も治療記録が続いているんです。まるで生きているかのように」

私は震えた。

「それは…どういうことですか?」

「わかりません。システムエラーかもしれませんが、こんなことは初めてです」

その日の夜、私は他の看護師と一緒に312号室を確認した。しかし、部屋は空っぽだった。ベッドには誰も寝ておらず、田中さんの姿はどこにもなかった。

「田中さんは?」

「田中さん?312号室には誰も入院していませんよ」

先輩の山田看護師は不思議そうに答えた。

「でも、つい昨日まで…」

「佐藤さん、疲れてるんじゃない?312号室は先週から空室よ」

私は混乱した。しかし、カルテを確認すると、確かに312号室は空室扱いになっていた。田中太郎さんの記録は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

しかし、その夜、私は再び笑い声を聞いた。今度は別の部屋から聞こえてきた。315号室からだった。

恐る恐る部屋を覗くと、そこには見知らぬ老人が横たわっていた。その老人は天井を見つめながら、静かに笑っていた。

私は急いでその患者のカルテを確認した。そして、そこには信じられない記録があった。

「令和三年八月二十三日 午前四時十五分 死亡確認」

私は震えながら、さらにカルテを調べた。そこには、死亡後も続く治療記録が延々と記載されていた。まるで死んでいないかのように。

そして、私はついに恐ろしい真実に気付いた。

この病院では、死亡した患者の記録が削除されずに残り続けている。そして、その記録に基づいて、システムは自動的に治療を継続している。死んだ患者たちは、記録上では生き続けているのだ。

しかし、それだけではなかった。死んだ患者たちは、実際にこの病院に留まり続けているのだ。記録に縛られて、永遠に治療を受け続けている。

私は慌てて病院の地下にある古い記録保管庫を調べた。そこには、何十年も前からの患者記録が保管されていた。そして、その多くが死亡後も記録が続いている患者たちだった。

保管庫の奥で、私は古いメモを発見した。それは、かつてこの病院で働いていた看護師が残したもののようだった。

「この病院では、死者が生き続けている。記録システムのバグが原因で、死亡した患者の記録が削除されない。そして、その記録に従って、彼らは永遠に治療を受け続けている。彼らは苦しんでいる。しかし、記録が存在する限り、彼らは解放されない」

メモの最後には、震える文字でこう書かれていた。

「助けてあげたいが、記録を削除する権限がない。誰か、彼らを解放してほしい」

私は決意した。この恐ろしい状況を終わらせなければならない。翌日、私は記録課の課長に事情を説明し、システムの完全な点検を依頼した。

そして、数日後、ついに原因が判明した。病院の電子カルテシステムに致命的なバグがあり、死亡記録が正常に処理されていなかった。死亡した患者の記録が削除されず、自動的に治療が継続されていたのだ。

システムの修正作業が始まった。そして、修正が完了した瞬間、病院から笑い声が消えた。

しかし、私には分かっていた。田中さんをはじめとする死んだ患者たちは、ついに解放されたのだ。彼らは長い間、記録に縛られて苦しんでいたが、ようやく安らかに眠ることができるようになった。

あの夜聞こえていた笑い声は、笑い声ではなかった。それは、解放を求める魂の叫びだったのだ。

私は今でも、あの体験を忘れることができない。そして、医療記録の重要性と、システムの恐ろしさを身をもって学んだ。データの中に閉じ込められた魂たちのことを思うと、今でも背筋が寒くなる。

現代社会では、すべてがデジタル化されている。しかし、時としてそのシステムが、私たちの想像を超えた恐ろしい事態を引き起こすことがある。田中さんたちのように、記録の中に永遠に閉じ込められてしまう存在があるかもしれない。

私たちは、テクノロジーの便利さと引き換えに、何か大切なものを失っているのかもしれない。そして、その代償は、時として私たちの想像を遥かに超えて恐ろしいものになるのだ。