田中家が新築の家に引っ越してきたのは、桜の咲く頃だった。郊外の住宅地に建つ真新しい二階建ての家は、夫の健司と妻の美穂、そして五歳の娘である花音にとって念願のマイホームだった。共働きの夫婦にとって、健司の母親である祖母のタケ子が同居してくれることは何よりもありがたく、四人の新生活は順調に始まった。
タケ子は七十三歳になるが、まだまだ元気で、孫の花音の面倒を見ることを何よりも楽しみにしていた。健司と美穂が仕事に出かけている間、タケ子は花音と一緒に過ごし、お昼ご飯を作ったり、一緒にテレビを見たりして穏やかな時間を過ごしていた。
しかし、引っ越してから一ヶ月ほど経った頃、花音の様子が少し変わったことにタケ子は気づいた。それまで活発だった花音が、時々ぼんやりと天井を見上げるようになったのだ。最初は新しい環境に慣れるまでの一時的なものだろうと思っていたが、日が経つにつれてその頻度は増していった。
ある日の午後、タケ子が台所で夕飯の準備をしていると、リビングで一人で遊んでいた花音が突然立ち上がった。
「おばあちゃん、誰か帰ってきたよ」
花音の声に振り返ると、彼女は玄関の方を向いて立っていた。しかし、玄関からは何の音も聞こえない。
「誰も帰ってきてないよ、花音ちゃん」
タケ子がそう言うと、花音は首を傾げた。
「でも、『おかえり』って言ったよ。ママの声じゃないけど」
タケ子は少し困惑した。確かに誰の声も聞こえていなかった。子供の想像力は豊かだから、そんなこともあるだろうと思い直し、花音を諭すように言った。
「きっと外の音が聞こえたのね。ママはまだお仕事よ」
それからしばらくの間、似たようなことが何度か起こった。花音は決まって「おかえり」と言われたと主張し、その度にタケ子は誰もいないことを確認した。最初は子供の空想だと思っていたが、花音の様子があまりにも真剣で、タケ子も次第に不安になってきた。
そして、その不安が現実となる日がやってきた。
美穂がいつもより早く仕事を終えて帰宅した日のことだった。玄関のドアを開けると、花音が階段の前で立ち止まっていた。
「お疲れ様、花音。今日は何してたの?」
美穂が声をかけると、花音は振り返って不思議そうな顔をした。
「ママ、さっき『おかえり』って言わなかった?」
「え?今帰ってきたばかりよ」
美穂は困惑した。自分は確かに今玄関を開けたばかりで、まだ「ただいま」も言っていなかった。
「でも、二階から『おかえり』って聞こえたよ。ママの声じゃない人の声だった」
花音の言葉に、美穂の背筋に冷たいものが走った。二階にいるはずなのはタケ子だけだが、タケ子の声でもないという。
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんは台所にいるよ」
確かに台所からは包丁の音が聞こえてきた。美穂は花音の手を取り、そっと二階に上がってみた。しかし、二階には誰もいなかった。各部屋を確認しても、人の気配は全くなかった。
夕食の時、美穂は健司とタケ子にこのことを話した。健司は「子供の想像でしょう」と軽く流したが、タケ子は深刻な表情を浮かべた。
「実は、最近花音ちゃんがよく『おかえり』って言われたって話すのよ。最初は聞き間違いだと思ってたけど…」
三人の大人が顔を見合わせた。偶然にしては回数が多すぎる。
それからというもの、田中家では妙な出来事が続いた。誰もいないはずの二階から足音が聞こえたり、花音の部屋のドアが勝手に開いたりするようになった。しかし、最も不気味だったのは、花音だけが聞こえるという「おかえり」という声だった。
その声は決まって花音が一人でいる時に聞こえ、そして花音以外の誰にも聞こえなかった。声の主は女性のようで、優しい口調だというが、花音は「知らない人の声」だと言い続けた。
不安になった美穂は、近所の人に相談してみることにした。向かいの家の奥さんに何気なく話を振ってみると、意外な事実が明かされた。
「そういえば、この辺りで昔事故があったのよ。十年ほど前だったかしら。若い奥さんが交通事故で亡くなって、小さなお子さんが一人残されたの。その子は親戚に引き取られて、今はもういないけど…」
美穂の血の気が引いた。
「その事故があったのは、どの辺りですか?」
「確か、あなたの家が建っている辺りだったと思うわ。その頃はまだ空き地だったけど」
家に帰った美穂は、健司にこのことを話した。健司は最初は信じようとしなかったが、花音の様子があまりにも不自然で、ついに地元の不動産会社に問い合わせることにした。
すると、やはり十年前にその土地で交通事故があったことが判明した。若い母親が亡くなり、五歳の娘が残されたという。その娘は現在、別の県で暮らしているということだった。
健司は複雑な気持ちだった。科学的な説明のつかない現象を信じることは難しかったが、娘の安全を考えると無視することもできなかった。
そんな中、決定的な出来事が起こった。
ある日の夕方、美穂が仕事から帰ると、花音が玄関で待っていた。
「ママ、お姉さんが待ってるよ」
「お姉さん?」
「二階にいるの。『お母さんを待ってる』って言ってた」
美穂は震え上がった。花音が「お姉さん」と言ったのは初めてだった。そして、その「お姉さん」が美穂を待っているという。
恐る恐る二階に上がると、花音の部屋のドアが開いていた。部屋の中には誰もいなかったが、なぜか懐かしい匂いがした。それは美穂が子供の頃によく嗅いだ、母親のシャンプーの匂いだった。
その夜、美穂は一人で花音の部屋に入り、静かに語りかけた。
「もしも、誰かいるなら聞いてください。私たちは何も知らずにここに住み始めました。でも、もしあなたにとって大切な場所なら、私たちは出て行きます」
しばらくの沈黙の後、部屋の空気が少し暖かくなったような気がした。そして、美穂の耳に微かに声が聞こえた。
「ありがとう…でも、もう大丈夫」
翌日から、不可解な現象はぴたりと止んだ。花音も「おかえり」と言われることはなくなった。
数日後、美穂は事故で亡くなった母親の娘について調べてみた。すると、その娘が最近結婚し、母親の命日に毎年この土地を訪れていたことが分かった。そして、今年からは遠方に住むため、もう来ることができなくなったという。
美穂は全てを理解した。亡くなった母親は、娘の帰りを待ち続けていたのだ。そして、同じ年頃の花音を見て、自分の娘と重ねていたのかもしれない。最後の「ありがとう」は、娘がもう来ないことを受け入れ、この場所を去る挨拶だったのだろう。
田中家の生活は再び平穏を取り戻した。しかし、美穂は時々思う。あの優しい「おかえり」の声は、母親の愛情の深さを示していたのかもしれない。たとえ姿は見えなくても、愛する人を待ち続ける気持ちは、死を超えても続くのかもしれない。
花音も今では普通の子供に戻り、あの出来事を覚えているかどうか定かではない。ただ、時々二階を見上げて小さく手を振ることがある。その時、美穂は静かに心の中で呟くのだった。
「どうか、安らかに」
そして、どこからともなく、微かに「ありがとう」という声が聞こえたような気がするのは、きっと美穂の想像だろう。でも、それは決して怖い声ではなく、とても温かい声だった。