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水の声を聞く子

水道

春の引っ越しシーズンに、僕たち家族は古い一戸建てに移り住んだ。築三十年ほどの二階建てで、前の住人が高齢で施設に入ったため、格安で購入できたのだ。父は「掘り出し物だ」と上機嫌だったが、母は最初から何となく気が進まない様子だった。

妹の美咲は小学四年生で、新しい環境にすぐに馴染む子だった。引っ越して一週間もすると、もう近所の子供たちと遊んでいる。そんな美咲が奇妙なことを言い始めたのは、引っ越してから二週間ほど経った頃だった。

「お兄ちゃん、キッチンの水道から声が聞こえるよ」

僕は高校二年生で、美咲の相手をするのが面倒だった。宿題をしている僕に向かって、美咲は真剣な顔でそう言った。

「何それ、水の音でしょ」

「違うの。本当に声が聞こえるの。女の人の声」

美咲は首を振る。その表情があまりにも真剣だったので、少し気になったが、子供の想像力だろうと思って聞き流した。

しかし、美咲は毎日のように同じことを言い続けた。キッチンで水を使う度に「また聞こえる」と母に報告する。母は心配そうに美咲の頭を撫でながら、「きっと配管の音よ」と言って慰めていた。

ところが、一週間後、今度は洗面所からも声が聞こえると美咲が言い始めた。

「洗面所の蛇口からも聞こえるの。同じ女の人の声」

「何て言ってるって言うの?」僕は呆れながら聞いた。

「『助けて』って言ってる。とても悲しそうな声で」

その時、母の表情がさっと青ざめた。僕は気づかなかったが、後から思い返すと、母は何かを知っていたのかもしれない。

美咲の話は日に日にエスカレートしていった。水道を使う度に怯えるようになり、一人でキッチンや洗面所に行くのを嫌がるようになった。父は「子供の想像力は豊かだからな」と笑っていたが、母は次第に無口になっていった。

そんなある夜、僕は深夜に喉が渇いて階下に水を飲みに行った。キッチンの蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく出てきた。コップに水を注いでいる時、確かに聞こえたのだ。

「助けて…助けて…」

か細い女性の声が、水の音に紛れて聞こえてきた。僕は慌てて蛇口を閉めた。心臓が激しく鼓動している。きっと聞き間違いだ、そう自分に言い聞かせた。

しかし、翌日の夜も、その次の夜も、水道を使う度に声が聞こえるようになった。最初は「助けて」だけだったが、だんだんと他の言葉も聞こえ始めた。

「冷たい…暗い…苦しい…」

「なぜ…なぜ私を…」

「真実を…知って…」

僕は美咲に謝った。「ごめん、本当に聞こえるんだね」

美咲は僕の手を握りながら言った。「お兄ちゃんにも聞こえるようになったの?」

「うん。でも、これは誰にも言わない方がいいかもしれない」

なぜかそう思った。この声は、僕たち兄妹だけの秘密にしておくべきだと。

しかし、声はだんだんとはっきりしてきた。そして、ある夜、衝撃的な言葉を聞いた。

「佐藤さん…なぜ…私を殺したの…」

佐藤は僕たちの苗字だった。僕は血の気が引いた。声は続ける。

「あの日…キッチンで…後ろから…」

「水に…沈められて…」

僕は震え上がった。これは単なる心霊現象ではない。何か具体的な事件に関係している。

翌日、僕は勇気を出して母に聞いてみた。

「お母さん、この家で何かあったの?前の住人について知ってる?」

母は洗濯物を畳む手を止めて、僕を見つめた。

「なぜそんなことを?」

「美咲が水道から声が聞こえるって言ってるでしょ。僕も…実は聞こえるんだ」

母の顔が蒼白になった。そして、長い沈黙の後、重い口を開いた。

「実は…この家で事件があったの。十年前に」

母の話によると、前の住人の老夫婦には息子がいて、その息子の嫁が行方不明になったという。警察も捜査したが、結局見つからなかった。そして数年後、息子も病死し、老夫婦だけが残された。

「でも、近所の人の話では…」母は声を落とした。「嫁姑問題がひどくて、息子の嫁は姑にいじめられていたって。そして、ある日突然いなくなった」

「それで?」

「姑は『勝手に出て行った』と言い張ったけど、荷物は全部そのままだったの。不自然だって、みんな思ってた」

僕は背筋が凍った。水道から聞こえる声は、その行方不明になった女性のものなのか?

その夜、美咲が突然叫び声をあげた。僕が駆けつけると、美咲は洗面所の前で震えていた。

「お兄ちゃん、聞こえる!すごくはっきり聞こえる!」

僕も耳を澄ませた。確かに、これまでで一番はっきりとした声が聞こえてきた。

「私は…ここにいる…水の中に…沈められた…」

「キッチンの床下…見て…」

「おばあさんが…私を…」

美咲は突然洗面台に近づいていく。まるで何かに引き寄せられるように。

「美咲、だめ!」

僕は慌てて美咲を引き止めようとしたが、美咲の力が異常に強くなっていた。洗面台の蛇口に手を伸ばし、水を出す。

「一緒に…来て…真実を…教えて…」

美咲の目が虚ろになっている。これはまずい。僕は力任せに美咲を引き離そうとしたが、美咲は洗面台から離れようとしない。

その時、母が階段を駆け上がってきた。美咲の様子を見て、青ざめた。

「美咲!」

母が美咲を抱きしめると、美咲はようやく我に返った。

「お母さん…怖い…水の中の人が、一緒に来てって…」

翌日、僕たちは近所の人に話を聞いて回った。すると、驚くべき事実が判明した。

十年前に行方不明になった女性は、実際にはキッチンで姑に殺害され、床下に埋められていたのだ。しかし、証拠不十分で事件にはならなかった。姑は「嫁は家出した」と主張し続け、そのまま時効を迎えた。

僕たちはすぐに警察に通報した。キッチンの床下を調べると、果たして女性の遺骨が発見された。十年前の行方不明事件は、ついに解決した。

遺骨が発見された日の夜、僕は恐る恐る水道を使ってみた。

もう、あの声は聞こえなかった。

美咲も「もう声は聞こえない」と言った。ただ、「ありがとう」という小さな声が、最後に一度だけ聞こえたような気がした。

真実が明らかになった後、僕たちは引っ越しを決めた。あの家にいると、どうしても水を使う度にあの日のことを思い出してしまう。

新しい家に移ってから、美咲は元の明るい子供に戻った。しかし、時々、蛇口をひねる前に少しだけ躊躇することがある。

「大丈夫?」と聞くと、美咲は首を振って言う。

「うん、もう聞こえない。でも、水って色んなことを覚えてるんだなって思う」

僕もそう思う。水は記憶する。そこで起きた悲しみも、苦しみも、全部覚えている。そして、時が来れば、その記憶を誰かに伝える。

真実を求める声として。

助けを求める最後の叫びとして。

あの家は今も空き家のままだ。新しい入居者はまだ現れない。きっと、水道工事をするまで、誰も住もうとしないだろう。

でも僕は知っている。たとえ配管を全て取り替えても、水の記憶は消えないということを。

なぜなら、水そのものが覚えているから。

そこで起きた全てのことを、永遠に。